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第1章

*(1) 「自然の探求」あるいは「自然について」のいう語句の用例については、C.Kahn,Anaximander and the Origins of Greek Cosmology,Columbia,1960,rep.Indianapolis,1994,p.6,n.2 を参照。最初に『自然について』という著作を残したのは、ミレトス派アナクシマンドロスだとされる。Ibid,p.240.

*(2) G.E.R.Lloyd,Early Greek Science,New York,1970,pp.8-12. 山野耕治・山口義久訳『初期ギリシア科学』法政大学出版局,1994,12-17 頁。

*(3) (1) は、「秩序( κοσμος )」としての自然である。その語句の用例については、Kahn,op.cit.,Appendix I を参照。

*(4) 「自然法則」という表現は、アリストテレスには見当たらないし、またありそうもない。当時一般に、「自然( φυσις ) 」と「法則( νομος ) 」は、自然と規約として対立的に捉えられているからである。 H.Bonitz,Index Aristotelicus,2nd ed.,Berlin,1870,488b41sqq.

 自然法則の問題は、「規範性(prescriptive)」「記述性(descriptive) 」といわれる区別をもち、それぞれ人間の行為と自然現象の規則性という対象領域の区別として通常理解される。Kahnは、イオニア派において、自然法則が、自然現象の規則性に限らず、社会規範にも適応される包括的概念であることを指摘する(ibid,p.193,199)。もし、アリストテレスに包括的概念がないという観測が正しければ、包括的概念の復活はヘレニズム期のエピクロス派やストア派に求められるであろう。A.A.Long,Hellenistic Philosophy,2nd ed.,London,1986,p.41,pp.164-165. 第3章第2節で、ストア派的なアリストテレスの自然目的論解釈を検討する。

 自然法則の問題は、現在も活発な議論が進行している。それは、自然現象の規則性に関わる自然法則の中で、改めて「記述性」「規範性」という区別を問題とする議論といえよう。「記述性」を唱えるのはヒュームの(因果関係に関する)「恒常的連結」という見解に由来する一派であり、「規範性」を唱えるのは自然法則に必然性を含意させる一派である(ヒュームにとっての必然性の問題は今は問わない)。こうした論争は自然法則の「普遍性」の身分に関わる論争でもある。アリストテレスの自然法則は規範性(必然性)をもつ。本論で現代の議論を追跡することはできないが、次が簡潔な概要を与える。R.Harre,Laws of Nature,London,1993,ch.2.

*(5) 但し、アリストテレスは、プラトンについて、形相因と質料因しか捉えていないとする(Metaph.A6:988a7-10)。本論では扱わないけれども、この見解を真剣に受け止めるならば、なぜプラトンにおける対応概念(counterpart) が、始動因や目的因ではないかが正確に考察されるべきである。

*(6) サボーは、ギリシア数学について、非経験主義とともに、帰謬法という推論形式に着目して、エレア派を起源とした。A.Szabo,The Biginnings of Greek Mathematics, tr.A.M.Unger,Dordrechet,1978,esp.pp.216-220.しかし、学問のあり方の問題は、論理的問題にとどまらず、本来的には知識の問題であり、信念( πιστευειν ) のあり方の問題である訳であるから、ソクラテスの論駁から考えるのが正当であろう。ソクラテスの論駁は帰謬法の形式をとるけれども、ヴラストスが端的に指摘しているように、エレア派の場合と内実が異なる。つまり(ヴラストスの叙述とは表現上異なる)、帰謬法での仮定(帰謬法を通じてその否定が帰結される命題)が、ソクラテスでは信念の内にあるけれども、エレア派ではそうした限定がない(むしろ信念の外の)命題なのである。G.Vlastos,"Socratic Elenchus",Oxford Studies in Ancient Philosophy 1,1983,rep.with revision in his Socratic Studies,Cambridge,1994,pp.2-3.田中享英訳「ソクラテスの論駁法」井上忠・山本巍編訳『ギリシア哲学の最前線T』東京大学出版会,1986,38-39 頁。

*(7) ヴラストスが「ソクラテスのエレンコス問題」として指摘したことであるが、もちろん、アリストテレスがソクラテスの論駁の「問題」として考えていたということではない。 ibid,p.3.前掲邦訳,40 頁。

*(8) ここで「正当化」という場合、「正当化された真である信念」という知識の規定のもとで、現代なされている議論とは区別されなければならない(cf.M.Burnyeat,"Aristotle on Understanding Knowledge",in E.Berti ed.,Aristotle on Science,Padua,1981,pp.101-102)。「知覚的明証性に照らしての正当化」という含意は全くない。『分析論後書』第1巻第3章の議論には、現代の認識論においても正当化理論の基本的な枠組みをなす「基礎づけ主義(foundationalism) 」「整合主義」「(無限遡行による)懐疑主義」の原形が見られるが、それは議論の形式においてであり、その内実は別に明らかにされなければならない。正当化理論に関するアリストテレス認識論の提示として、次を参照。T.H.Irwin,Aristotle's First Principles,Oxford,1988,pp.124- 133,T.H.Irwin,"Aristotle",in J.Dancy and E.Sosa eds.,A Companion to Epistemology,Oxford,1992, esp.§2.

*(9) Ackrill は入門的書物において『分析論後書』を「科学の哲学」という題目で扱っているけれども、賛成しずらい理由である。J.Ackrill,Aritotle the Philosopher,Oxford,1981,ch.7.(藤沢令夫・山口義久訳『哲学者アリストテレス』紀伊國屋書店,1985.) Burnyeatは、『分析論後書』を「科学哲学」と「認識論」とを合わせたものとして理解すべきことを指摘している(op.cit.,p.97)。『分析論後書』の他に(『霊魂論』の一部──その範囲は認識論を何と理解するかによる──を除いて)、アリストテレスの認識論はない。

*(10) Burnyeat はデカルト以降「科学哲学」と「認識論」は分離したとする(op.cit.,pp.138-139)。しかし、それらの結合からのみ理解されると考えられる問い「自然科学は必然的知識であるか」は、近世の基本的問題であり続けたともいえる。その点について、次に概観が与えられている。J.Losee,A Historical Introduction to the Philosophy of Science,3rd ed.,Oxford,1993,Ch.9,§I,cf.Ch.7.(常石敬一(初版)訳『科学哲学の歴史』紀伊國屋書店,1974.)

*(11) 弁証論の推論は、吟味的、争論的といった区別をもつ(SE 2:165b3-8)。尚、本文では、争論的推論のうち非妥当な論理形式をもつ推論( φαινομενοι συλλογιστικοι, SE 2:165b8) を除外している(cf.Top.A1:101a2-4) 。

*(12) 「議論( λογοι ) 」とは、論理学で通常「論証」と訳される "argument" に当たる。アリストテレスの論証は、論理学でいう「論証」に、妥当性と、知識を成立させるという条件がついたものである。

*(13) 「知識を成立させる(教示的)」という種差から、論証が固有にもつ前提の条件が規定される。つまり、前提は (1)真であり、 (2)第一であり、 (3)無中項であり、そして結論よりも (4)より知られ、 (5)より先であり、 (6)結論の原因であるという条件である(A2:71b20-22,25-33) 。こうした前提の条件が、先の(i) 原因の認知、(ii) 必然性の認知を可能にするものとして導入されているのである。

諸条件は、(1)(2)(3) のいわば絶対的条件と(4)(5)(6) の結論に対する相対的条件に区別される。論証の前提の条件として他の著作で絶対的条件のみが指定されることがあるが(Top.A1:100a27-29)、『分析論後書』では、結論に対する固有な条件である点で、(4)(5)(6) の相対的条件の方を重視している(A9:75b39-40,76a26-30)。(4) と (5) は同概念であるという了解のもとで、(4)(6)について、次で素描した。拙稿(発表要旨)「アリストテレスの論証理論」『哲學』48,1998.

*(14) 加藤氏はこの箇所に言及していないが、氏が次のように特徴づける用例分類に当たろう。「メトドスはそのような一定の道筋〔論法、論証法〕にしたがってなされる『一つづきの論究』である。したがって、それは……論であり、学問であり、体系である。」加藤信朗「ホドスとメトドス」(1975 年初出)『哲学の道』創文社,1997 所収, 8頁。

*(15) " ων "の読み方は Ross に従う(W.Ross,Aristotle's Physics,Oxford,1936,p.456,ad 184a10-12) 。尚、引用部分全体で一文であるが、三文に分けて訳した。

*(16) 自然が原因の一例として挙げられるといっても、たいてい「思考」(行為の原因)と並列して挙げられる。「自然」は派生語を含め、原因の一例として挙げられる箇所(本文で指示)以外で 197b33-34のみである。

*(17) 拙稿「アリストテレスの自然学成立における原因と必然性の問題」(『西日本哲学年報』第2号,1994 )の題目でいう「自然学成立」とはこうした意味である。この点について何度か質疑を受けたので明確にしておきたい。

*(18) 以下の展開(B8-9)の中で重要な定式化であるが、注目されていない。始動因の定式化はB巻8章、質料因の定式化はB巻9章で問題とされる。定式化される問いと四原因の配分について異論がないわけではないが(W.Charlton,Aristotle's Physics,Oxford,1970,p.113)、 Ross や Scofield が正当である。Ross, op.cit.,pp.527f, M.Schofield,"Explanatory Projects in Physics,2.3 and 7",Oxford Studies in Ancient Philosophy,supp.1991,pp.36-39. 尚、原因探求における目的因の先行性について、次も参照。PA A1:639b11-14.

*(19) Rossの分析で第二巻7─9章は "Explanation in Natural Philosophy"という表題のもとに一括されている(op.cit.,p.355) 。しかし、近年の8─9章をめぐる研究において、7章の意義は全く顧みられていないといえる。7章を含む四原因説を主題とする Schofieldは、7章から後続章への見通しをつける(op.cit.,pp.39-40)。しかし、8章は目的因、9章は自然事象の必然性という通説的解釈に従っているため、本論の理解とは異なる。

*(20) アリストテレスは数学が学問の範型であると明言している訳ではない。しかし、特に『分析論後書』A巻の叙述はそのことを示していると伝統的に考えられ、今日でも大方の支持をえている。例えば、次を参照。G.E.L.Owen,"Aristotle: Method,Physics and Cosmology"(1970),rep.in his Logic,Science and Dialectic,London,1986,p.153. Barnes はこうした見解を支持しない(彼が論拠の一つとする数学の用例数において文脈的重要性が考慮されておらず誤解を与える)。J.Barnes,"Aristotle's Theory of Demonstration"(1969),rep.with revisions in J.Barnes et al.eds.,Articles on Aristotle,vol.1,London,1975,p.70. Wiansは、より精密な用例検討によりBarnesを批判している。W.Wians,"Scientific Examples in the Posterior Analytics",in W.Wians ed.,Aristotle's Philosophical Development,Lanham,1996,pp.134ff. 但し、同時にWians は、『分析論後書』での数学の重視を論拠に指摘されてきたプラトンへの依拠について、数学の見方の相違から否定している。op.cit.,pp.144ff.

*(21) この点について、一般的知識から個々の事例を知る問題として、第5章で扱う。

*(22) 目的因の把握が先行しない事象の一般的把握については、第4章で扱う。

*(23) 論証とは、既に探求から得た知識を、(教授のために)定式化したものであるとするBarnesは、論証がなくとも知識は成立するという見方を示すとともに、論証に定式化するための方法論(枠組み)がなくとも探求が成立するという見方を示す(op.cit.,esp.p.77)。前者については、 Burnyeat が批判するように不当である(op.cit.,pp.115-120)。後者については、Barnesの見方からすれば探求段階であるはずの動物論において、『分析論後書』の論証に関わる方法論があるという仕方で批判がなされている。A.Gotthelf et al.eds.,Philosophical Issues in Aristotle's Biology,Cambridge,1987,part IIの諸論文。本論の考察は、Barnesの双方の点に関して、自然学の原理的考察に立脚した批判でもある。

*(24) 「形態( σχημα ) 」は、一方で、形相( μορφη ) に収斂する概念であるが(PA A1:640b27-29) 、他方で、デモクリトスに由来する言葉でもある。デモクリトスは形態(と色)によって人間(の形相)を捉えようとしたが、「死んだ者は、〔生きている者と〕形態として同じ形相をもつけれども、しかし人間ではない」と述べられる(PA A1:640b29-35) 。

*(25) 物理主義者とアリストテレスの対比は次のようにも記述される。「建築〔家の生成〕についても、このように生成するので家がしかじかとであるというより、家の形相がしかじかであるので〔家の生成に〕これこれが付帯するのである。というのも、生成はウーシアの為であるが、ウーシアは生成の為ではないのである。(PA A1:640a15-19) 」

*(26) 松永教授が「真の起動因」という仕方でつとに強調された点である。松永雄二「或る出発点のもつ思考」(初出1966)『知と不知』東京大学出版会,1993 所収,67-75頁。また、目的因は始動因にとって「相関する原因( η αντικειμενη αιτια, Metaph.A2:983a31)」とされるが、「相関する」とは、例えば知識( επιστημη )に対する知識対象( επιστητον ) 、知覚( αισθησις )に対する知覚対象( αισθητον )といった(概念的)関係をいうのである(Top. Δ4:125a25-32)。

*(27) こうした方法論的構想をアリストテレスの個々の自然学の論述に探ることは今後の課題とする。事象の定義から、事象の性質を必然化するという構想は、現代でも次のように描かれている。

 

 

 

第2章

*(1) 問題の" των ενεκα του αιτιων "(B8:198b10-11)について既訳からいくつか拾えば、

ともかくも、(2)が訳しているのは、" το ου ενεκα " であり、誤訳といわなければならない。尚、(1)の訳者でも、" το ενεκα του " については、他の箇所では「目的」と誤訳している場合がある。また研究者の中で、(2)目的因と訳したり理解している場合は決して少なくない。例えば、Charles は " το ενεκα του (199a7)"を "that for sake of which" と訳し"teleological goal" と解してしまっている。D.Charles,"Teleological Explanation in the Phisics",in L.Judson ed.,Aristotle's Phisics,Oxford,1991,pp.112-113. 文法的には明らかであるから、こうした誤訳はアリストテレスの目的論への誤解がいかに根深いものかを示す。

訳者等は、『自然学』第2巻8章に次のような表題を掲げる。"Does nature act for an end ?"(Hardie and Gaye:1930,Ross註釈:1930)、「自然の合目的性、機械的必然観への批判」(加来:1966)、「自然の合目的性。エンペドレスなどの機械的必然論への批判」(出:1968)、「<自然>の合目的性」(藤沢:1972)。次のような表題は、誤りではないとしても誤解を与える。"In support of final causality in Nature,..."(Wicksteed and Cornford:1929)、 "Final causes are crucially important in nature"(Waterfield:1996).

   このうち、「合目的性(purposeful)」という概念は、「AはBの為にある」という連関において、Aを問題としている点で正当である。例えば、「AがBに役立つ」という連関がある場合、Aは合目的性をもつという。しかし、「AはBの為にある」という連関におけるAは、本文で述べるように区別をもつ。「AはBの為にある」という連関を前提しそのAを問題とする場合(例えば、道具が目的に役立つという場合)と、そうした連関を形成するものとしてAを問題にする場合(例えば、行為者が目的実現に寄与している場合)である。「合目的性」という概念は、どちらかといえば、前者に関わるように思われる。しかし、すぐに述べるように、アリストテレスの問題とするのは始動因であり、「AはBの為にある」という連関を形成するAが主題である。

*(2) 「(b) 目的が使用するもの」とは、質料因を意味するといっているのではない。「(b) 目的が使用するもの」は広義の概念であり、目的への生成過程において生じるものすべてが含まれよう。ここで指摘しているのは、質料因が(b) に位置づけられるということだけである。

*(3) 偶然論で既に自然が始動因であることが確定しているのであるから、それが改めて課題とはならないという解釈は成立しない。偶然論での指摘はせいぜい伏線であるとは言いうるだけである。前章第3節で指摘したように、偶然論は自然の考察に限定さておらず、独立した一般的な考察であると見るべきである。

*(4) 他に議論で問題となる「種子」「思案」といった事柄も、後に述べるように、始動因を指し示している。

*(5) 『自然学』B巻8章を始動因の問題として明確に指摘するのは、Meyer であり、Irwin にその傾向が見られる。S.S.Meyer,"Aristotle,Teleology,and Reduction",Philosophical Review 101,1992,pp.810-811. T.Irwin,Aristotle's First Principles,Oxford,1988,pp.104-107. ともに、偶然論(B4-6)での見解を踏まえている。前註(3)参照。但し、Meyer の研究趣旨は、後註(14)に指摘するように、特異である。

*(6) 例えば、Gotthelfが目的論について『自然学』で主題的に扱うのは、この箇所のみである。A.Gotthelf,"Aristotle's Conception of Final Causality"(1976),rep.with new notes and postscript in A.Gotthelf and J.G.Lennox eds.,Philosophical Issues in Aristotle's Biology,Cambridge,1987,§XI.

Cooperは、ここでの議論が論敵の主張に基づく点で弱い議論であるとする。J.Cooper,"Hypothetical Necessity and Natural Teleology",in A.Gotthelf and J.G.Lennox eds.,op.cit.,p.250.しかし同時にここでの議論をアリストテレスの自然目的論で最も重要であると考えているのは次の点に伺われる。自然目的論に対しよくなされる批判、技術との類比について、Cooperは、自然目的論がそうした類比に依存しないことは、ここでの議論がそうした類比に依存していないことが示すという(ibid,p.245,n.5)。

*(7) 「目的( ου ενεκα, τέλος )」は、善さ、或いは有益性(何かにとっての善さ)であり (B2:194a32-33,B3:195a23-25,B7:198b8-9)、逆に、善さがあると「それの為( ενεκα τουτου )」生成していると思われることになろう。その他の典拠及びそれへのコメントとして、次を参照。Cooper,op.cit.,p.245,n.4,D.M.Balme,"Teleology and Necessity",in A.Gotthelf and J.G.Lennox eds.,op.cit.,p.277,n.5,A.Gotthelf,"The Place of the Good in Aristotle's Natural Teleology",Boston Area Colloquium in Ancient Philosophy 4,1988.

*(8) こうした解釈は、次のコンフォードによるパラフレーズに見られる。"if we attribute the bad result (destruction of the corn) to accident or necessity, why attribute the good result (growth of the corp) to benevolence ?" P.H.Wicksteed and F.M.Cornford,Aristotle: the Physics,London,1929,p.164.

*(9) 恒常性の論点からの目的論の擁護は、トマスに見出せる。In Phy.II,lect.xii,n.254. Irwin の次の指摘は適当ではない。"Rain making the crops grow does not count as apparently teleological, since it no more makes the crops grow than it spoils the crops on the threshing-floor." Irwin,op.cit.,p.523,n.18.

*(10) それゆえ、難問が払拭されていない段階において、降雨事例での目的論的自然始動因説が保持可能なことから、アリストテレスがそれにコミットしていると考えることは、少なくともアリストテレスの意図に沿った解釈ではない。この点については、後にも指摘するけれども、降雨事例は、必然論的自然原因説に好都合な事例として挙げられたものであり、その事例の中で対比的に目的論的自然始動因説が想定されている
と考えるのが適当である。

*(11) この適者生存説(偶然説)が、(B)生体の部分の事例のみに関わり、(A)降雨の事例について述べられていないことは、引用から明らかであろうが、重要なことは(A)降雨の事例ではそうした補助なしで一貫した説明が可能であり適者生存説を必要としていない点である。

*(12) この箇所は進化論史の中でしばしば取り上げられるが、『種の起源(1859初版) 』 第3版(1861)で加えられた「種の起源にかんする意見の進歩の歴史的概要」でダーウィン自身が取り上げているのである。ダーウィンは、クレア・グリース(Clair Greece)の指摘によるとし、降雨事例を紹介して、歯の事例について(198b23-31) グレース訳を引用している(ダーウィンは降雨事例も歯の事例もアリストテレスに帰してしまっている)。そして、次のように注解する。「ここでは自然選択の原理がおぼろげながら予見されているのであるが、アリストートルが自然選択の原理を完全に理解していたとはとてもいえないことは、歯の形成についてかれがのべていることがらによって、しめされている。(『種の起源(上)』八杉竜一訳, 岩波文庫,1963,241 頁)」
進化論とエンペドクレス説については、後註(33)参照。また、第3章第1節でより現代生物学に即して考察する。

*(13) エンペドクレスがいわば生粋の物理主義者とはいえないことは、別な著作でのアリストテレスの批評にも見られる。つまり、エンペドクレスの「愛」(cf.B8:198b16)は善の始動因として想定されており、四元的(物理的)結合を切り離していると批評されるのである(Metaph.A4:985a6,27-29) 。

Bostock は、典拠を示していないが、ここでの議論はエンペドクレスには有効だがデモクリトスには無効とする(R.Waterfield tr.,Aristotle: Physics,Oxford,1996,Introduction,1996,pp.xxvi-xxvii) 。他方、Cooperは、様々な無限の世界( κοσμοι )があるというデモクリトスの世界生成論(cosmogony) 的文脈(DK 68A40)を引いて、デモクリトスも常に特定の形態のものが生成すると考えていないとし、エンペドクレスと同様に処理している(op.cit.,pp.252-253)。
   アリストテレスのデモクリトス批判については、本章第5節で扱う。

*(14) Meyer は、自然学者が、目的ばかりか特定の形態の生成も、自然による生成から除外していると解し、彼らに eliminative materialism を帰してしまっている(op.cit.,pp.824-825)。むしろ、特定の形態の生成を認めて、特定の形態を物理的に説明しようとする"reductive materialism" というべきであろう。後註(24)参照。

*(15) (a) について、第一章第一節でのロイドによるギリシアの自然の探求の特徴づけを参照。また、G.Vlastos,Plato's Universe,Seattle,1975,pp.19-20.

*(16) Charlton は、日常的用法である点を不十分であると批判するけれども、日常用法であるから、論駁の前提(必然論者の承認する前提)となりうるのである。W.Charlton,Aristotle's Physics I,II,Oxford,1970,p.123.

 この気象事例は、同様な意図のもとで、付帯性の問題で中で用いられる(Metaph.E2:1026b31-35)。つまり、後に改めて指摘するように(第3章第2節)、この気象事例から、(A)降雨事例に関する自然目的論の示唆を読み取ることはできない。pace D.Furley,"Rainfall Example in Physics ii 8",in A.Gotthelf ed.,Aristotle on Nature and Living Things,Pttsburgh,1985,p.179.

*(17) 必然論的自然原因説からすれば、(i) の選言に代えて、(iv)「必然性によるか、何かの為に生成するのか」という選言を問題にすべきだ、或いは、ともかく「必然性による」という選択肢が何らか含まれるべきであるという解釈を想定している。こうした解釈については、本節補遺で別に扱う。

*(18) (a) 自然事象の恒常性のについての記述は次の通りである(B8:198b34-36)。
" ταυτα μεν γαρ και παντα φυσει η αει ουτω γιγνεται η ως επι το πολυ,"

この記述の下線部分[太字部分]に限定を求めるのである。つまり、「こうしたもの( ταυτα,198b34)」を、目的論的に見える事柄(歯の事例)のみに限定するのである。

 多くの論者に採用されている(こうした限定は、選言を理解しやすくする訳であるが、降雨事象を目的論の領域から外す効果もある)。e.g.W.Charlton,op.cit.,pp.122-123, Gotthelf,op.cit.(1987),p.223,n.41, Irwin ,op.cit.,p.522,n.18. 
しかし、「こうしたもの」にそうした処置を施しても、すぐに続く「自然によるすべてのもの( παντα τα φυσει )」にそうした限定はできない。Irwin は「そのように( ουτως,198b35)」を「目的論的に見えるように」と解する(ibid,p.521,n.17) (Irwin の議論の再構成の仕方は問題があり、それはテキストに対し正確とは思われないし、指示されるピロポヌスに沿ったものでもない(ibid,p.522,n.18) )。Charltonは "these things, like everything else due to nature"と解するが(強調引用者)、問題を解決しているとは思われない(ibid)。

*(19) この点で、Furley(op.cit.,p.180) に同意する。しかし、そのことは、彼の考えるように降雨を含む目的論を帰結しない。つまり、Furley自身、Gotthelfからの指摘として注記しているが(ibid.,p.182,n.3) 、この部分は、自然と偶然に関する一般的な問題を述べているだけであり、この部分において、後の(i) 「偶然によるか「何かの為に」か」という選言を遡って導入することはできない。つまり、冬の雨は、偶然に よらぬから、「何かの為に」だと結論できない。すぐに述べるように、(i) の選言は特別な領域限定をもつのである。Sedley は Furley を継承し更に展開する。D.Sedley,"Is Aristotle's Teleology Anthropocentric ?",Phronesis 36,1991,esp.pp.182-183. Sedleyは次章で検討する。

*(20) 特に「結果として随伴するものから( απο συμπωματος )」という表現が(ii)に用いられるまでの経緯は注意してよい。(A)「自然事象は偶然によることではない」の論拠は、(a) 自然事象の恒常性と(b) 偶然事象の非恒常性である。(a)(b)は、先に指摘したように、いわば公式見解として他の箇所でも繰り返される訳であるが、(a)(b)に述べる他の箇所に「結果として随伴するものから」という表現は見られない。他の箇所で、偶然を表現するのは、「偶然に( απο τυχης ) 」「偶発的に( απο του αυτωματος ) 」に限られる(GC B6:333b4-7,EE Θ2:1247a31-33,Rh.A10:1369a32-b2) 。現在の箇所においては、それに加えて、「結果として付随するものから( απο συμπωματος )」という表現が日常的用法( δοκει ) に即して同義なこととして並べられている訳である。この表現が用いられるのは、必然論的自然原因説の表現であるからと考えてよいだろう(正確には必然論者の用いる「結果として付随する( συμπιπτειν )」という語の派生語)。つまり、(a)(b)は、論駁の前提(ii)として問題となるが、論駁の前提としての有効性(必然論者がその前提を承認すること)を明示するために、意図的に用いられていると考えられる。アリストテレスは、別に偶然論というべき主題的議論を展開しているが(Ph.B4-6) 、そこでも「結果として付随する( συμπιπτειν )」という表現は派生語を含め現れないのである。

 「結果として付随する( συμπιπτειν )」は、エンペドクレス断片では、次のDK59に用いられるだけだが (M.R.Wright,Empedocles: the Extant Fragments,1981,rep.Bristol,1995,Index Verorum) 、そこでの問題は現在の文脈と連関しよう(e.g.,G.S.Kirk et al.eds.,The Presocratic Philosophers,2nd ed.,Cambridge,1983,pp.303-304)。

 尚、アリストテレスの偶然論(B6)において、「偶然に( απο τυχης ) 」と「偶発的に〔ひとりでに〕( απο του αυτοματου ) 」に区別を設けているが、現在の文脈でそうした区別をもちこみことは必要でなく、アリストテレスの理論を持ち出すことは、必然論者が承認しない立場を前提することになる点で不適切である。

*(21) 公刊した拙論で(i) の選言の意味を次のように述べた。「この選言の意味は、『偶然論(B4-6)』で主題的に扱われた、目的の自体的始動因と付帯的始動因の対比(B5:19 6b21-27,cf.B8:199b23-24)にあり、「偶然論」で「『或る目的の為に』生成している物について(B5:196b29-30,197a35,B6:197b18-19,cf.B8:199b18-20)」という限定によってその設定領域が定められている。」「アリストテレスの自然目的論」『古代哲学研究』XXZ,1995,38頁。拙論では、アリストテレスの偶然論を前提することの不適切さが十分に意識されておらず、この点で中畑正志氏から批判をうけたと記憶する。

*(22) この点は、ここでの議論から降雨についての目的論を読み取ろうとする解釈に対する批判として最も決定的であろう。

*(23) 或いは、テキストのまま解釈しようとする場合、アリストテレスの「偶然に」という選択肢は多義的であり、必然論者の物理的必然性もそれに含まれているとする。つまり、「偶然に」とは、(1) 必然論者のいう物理的必然性と(2) 非恒常性の二義で用いているとするのである。確かに、「偶然」をアリストテレスの「付帯的始動因」と捉えるとき、物理的必然性が含まれてこよう。しかし、こうした解釈でもアリストテレスが詭弁を弄していると考えることにかわりはない。Gotthelfは、こうした解釈として Cherniss を挙げている(op.cit.,p.224,n.43)。

*(24) 「排除的物理主義」「還元的物理主義」は、本来、より一般的概念であるが、今日、とりわけ「心の哲学」の分野でさかんに議論されている。こうした概念を用いる意図は、本文に述べるように、排除主義が目的に当たるもの(穀物の成育)を自然による生成と認めないのに対し、還元主義が目的に当たるもの(食物の咀嚼)に密接に連関する物(歯)の形態を自然による生成と認めるが、それを物理的必然性による生成に還元する点で、対比が鮮明になると考えるからである。その区別は、簡便には、例えば次のように定式化されている。"Eliminativist theses take the form: `In reality, there are no table (mental states, ghosts)'; reductivist theses take the form: `In reality, table (mental states, ghosts) are nothing but ...'" T.Mautner,Dictionary of Philosophy,1996, rep.Harmondsworth,1997,p.163.

*(25) Cooper は、特定の形態の歯は必然的に生えるが、それが食物の咀嚼に有益であるのは偶然だと必然論者に主張させる(op.cit.,p.251,and n.9) 。しかし、Gotthelfが、目と瞼の例で説明するように、形態と有益性は独立の問題とはならない(op.cit.,p.223,n.38)。
Gotthelfは、特定の形態が物理的必然性では十分に説明されないことを、アリストテレスは議論上前提していると考えたいという(ibid)。私は、物理的必然性で十分でないことは、偶然を認め、適者生存説に依存せざるえない点で明らかにされていると考える。

*(26) e.g. C.Witt,Substance and Essence in Aristotle,Ithaca,1989,p.93,n.30.

*(27) ここで描く直線的連関は、全く単純な仕方での目的論的連関であり、より複雑な仕方での連関を考えなければならない場合もあろう。例えば、生体の諸部分は、生体全体の維持を目的として生成する(cf.PA A1:641a17-32)。しかしながら、生体諸部分の機能(呼吸、消化等)の必要性やそうした部分の存在は生体全体の維持から説明されるであろうけれども、生体の部分の生成における化学的組成や物理的形態については、生体全体の維持よりもむしろその部分の機能によって説明されるであろう。つまり、生体全体の目的論的連関は、次のような系をなす複雑な仕方で( πραξεως τινος ενεκα πολυμεους ) 考えなければならないであろう(cf.PA A5:645b14-20)。


     組成1 ………… ──呼吸器官1─┐
            ──呼吸器官2─┼呼吸機能1┐
            ──呼吸器官3─┘呼吸機能2┼─呼吸─┐
                     ……  ┘   │
                       ……  ┐   │
                        ……  ┼─消化─┼生体維持
                       ……  ┘    │
                          ……─┘

*(28) 目的(T)は生成過程の終点(Pn )と直ちに同じではない。目的は善でなければならない(B2:194a32-33, cf.B3:195a23-25)。

*(29) この点が、自然と技術の類比の基盤となる。第3章第3節で詳述する。

*(30) e.g. G.R.G.Mure,Aristotle,London,1932,p.13.

*(31) 技術者は故意に間違うことができるという問題は第3章第3節で扱う。

*(32) 別の著作で、「奇形」は「自然に反すること」であるが、常に偶然的な仕方で起こるわけではないので( αει μη τυχοντως ) 、或る仕方では、つまり「形相に即した自然」が「質料に即した自然」を統制してない場合には、「自然に即する」と述べられる(GA Δ4:770b9-17) 。

*(33) エンペドクレスの理論は、偶然から、適合した仕方で組成されたものが生き残り、そうでないものは滅亡するというものであった。しかし、この理論は、今日の進化論のような仕方で、適合した仕方で組成したものがその子孫を残すことで、一定の形態のものが存続していくことをいうものではない。つまり、エンペドクレスは、適合した仕方の一定の形態で組成するものがそれから生まれる「種子」を知らないのであり(PA A1:640a19-25) 、生存と破滅は組成の度ごとにおこっている。確かに、エンペドクレスの「無分化な最初のもの」が種子であったと述べられているが、その場合の「種子」は、直ちに成体が生じるのではなく先ず種子がなければならないという、成体に先行する限りのものを意味し、特定の種子から特定の成体が生まれるという含意はない。cf.R.Sorabji,Necessity,Cause and Blame,London,1980,pp.178-179.

*(34) この箇所は、Charltonの分析に見られるように、(T)の要点と重複するけれども (op.cit.,p.122) 、本文で述べるように、そこには「付帯的始動因」というアリストテレス自身の立場が加えられる。

*(35) 例えば、J.モノー『偶然と必然』(渡辺格他訳)みすず書房,1972,5−6頁。尚、同書は次章第1節で検討の対象とする。

*(36) " το δ' εξ αναγκης ποτερον εξ υποθεσεως υπαρχει η και απλως"という問いにおいて、" και απλως" を「端的にもまた」と読むと、いずれの選択肢にも「仮定から」が含まれ、先行する自然学者の立場を示す選択肢がなくなる。Cooperが指摘する通り、" και " は「〔先行する自然学者のいうように〕実際、端的に」と読むべきである。J.M.Cooper,op.cit.,pp.265-266,n.24. そして、こうした読み方は、『自然学』第2巻8章冒頭の問題設定を踏まえれば自然な読み方である。

*(37) こうした解釈は、 Cooper が提示したものである(op.cit.§II) 。彼は、自然における必然性が悉く「仮定からの必然性」であれば、動物論での物理的必然性(Democritean necessity) への言及と矛盾すると問題提起し、こうした解釈を提示した。

*(38) 「必然的に」といわれるのは、冒頭の自然学者の事例を除いて、後述する「仮定からの必然性」の場合である。

*(39) 「仮定からの必然性」への言及は、Cooper (op.cit.,p.243,n.2),Balme(op.cit.,p.285,n.34) によれば、(Somn.Vig.455b26-27 を例外として)現在の『自然学』第2巻9章と『動物部分論』第1巻1章に限られる。

*(40) Cooper,Balmeは「仮定からの必然性」の問題に生成方向の必然性を含める拡大解釈を示唆する。"ultimately what happens by that necessity only happens because it is hypothetically necessiated (Cooper,op.cit.,p.267,cf.265,強調引用者)". "the material are open to selection and control towards an end (Balme,op.cit.,p.284, 強調引用者)". しかし、Cooper,Balmeのいう問題は、始動因に関わる問題であり、「仮定からの必然性」の問題とは区別しなければならない。彼らの解釈は、ただ一箇所であるが、生成方向の必然性も含め、自然事象の生成における必然性が「仮定からの必然性」であることを示唆するテキスト(PA A1:642a1sqq.) を見出すからである(Cooper,op.cit.,p.266,Balme,op.cit.,p.285,n.33))。しかしながら、その箇所は、現在の『自然学』の文脈と同様、先行する自然学者のいう必然性(つまり物理的必然性)が「仮定からの必然性」というだけであると考える( ποιαν λεγουσιν αναγκην οι λεγοντες εξ αναγκης, PA A1:642a3-4) 。後註(45)参照。

*(41) Charles は、必然性の方向を双方向であると考えており、質料は目的を必然的に生じさせるという。その必然性は次のような限定的な意味であるとしても、とてもテキストに即した解釈とは思われない。"the matter does not cause in the appropriate way the presence of the goal, even though it may necessicate its occurrence."(p.121,強調筆者) D.Charles,"Teleological Causation in the Physics,in L.Judson ed.,Aristotle's Physics,Oxford,1991,pp.120-121.

*(42) 前註(40)を参照。Charles が明示的に始動因を問題とする(op.cit.p.120,n.21) 。

*(43) 前註(40)に挙げた「仮定からの必然性」の拡張解釈である。 "Probably this extreme statement means that the proximate matter would not be present and active at all, were it not that a process of living nature was taking place (eating,digesting,etc.)" (Balme,op.cit.,p.285,強調引用者) もちろん、引用中の"the proximate matter would not be present" という方は、「仮定からの必然性」の問題である。

*(44) 引用の" αναγκαιαν την φυσιν " は本論文でいう「物理的必然性」であり、「仮定からの必然性」はテキスト上必要条件( ουκ ανευ <ου>,B9:200a8)として表現されている。

*(45) 第2巻9章で生成方法の必然性は、自然学者の見解を除き、唯一この箇所で示唆されるのみである( αι κινησεις αι ταυτης, B9:200a31-32) 。

 

 

第3章 

*(1) J.モノー『偶然と必然』(渡辺格・村上光彦訳)みすず書房,1972,23頁(強調著者)。或いは、代わりに次を引用してもよい。" ... on the one hand, there is a striking similarity between its patters of thought and ours in all that concerns scientific associations and inferences,the construction of analogies and models, and the analysis of epistemological backgroud. On the other hand, ... the Greeks saw the cosmos as a living organism, as a projection of man into the distance of the outer world." (強調引用者). S.Sambursky,The Physical World of the Greeks,tr.M.Gagut,London,1956,p.v.

*(2) 同書2頁(原本を参照できなかったので意をくんで理解した)。

*(3) 以下、括弧内の数字はモノー前掲書の頁付を示す。

*(4)  この事例は、アリストテレスが付帯的始動因としての偶然を示すために挙げた事例と同趣旨であるといってもよい。職人は医者を殺す為に、金槌を落とすことを選択して落とした訳ではない。金槌をたまたま落とすことに、医者の死亡が付帯したのである。アリストテレスの事例は、債権者が或る場所にたまたま出掛けれることで、負債者に出会い返済をうけるという事例である。債権者が返済をうける為に出掛けたので あれば、「偶然に」とは言われない(B5:196b33-197a5) 。

*(5)  やや圧縮されている文章であるので先の引用でも中略したが、その部分は「(したがって≪偶然〔突然変異〕から生じた結果を保存する≫ことができ、したがってそれを自然淘汰の作用に委ねることのできる構造)(25)」である。

*(6)  この点について補足すれば、次のように述べられている。「あるタンパク質の構造の変化という形で現れる≪新しさ≫はすべて、第一にその新しいタンパク質がそれの属する系全体と両立しうるかどうかという点にかんして試験されることになる。しかもその系は、生物のもつ目的を果たすための無数の統制的条件によって前もって縛りつけられ、勝手にはできなくなっている。したがって、受け容れられる突然変異とい うのは、合目的的装置の首尾一貫性を低下させてはならないだけでなく、むしろすでに起こっている変化の方向に即してこれをさらにいっそう強化するか、あるいはまた──それよりずっと稀なことであるが──あらたな可能性を開くといったぐあいの突然変異でなければならない。(138-139) 」

*(7) ノーベル賞受賞者 Max Delbrück は、死後のノーベル賞受賞が認められるならば、「DNAの原理」の発見に対しアリストテレスへの授与を検討すべきだと述べたとされる。J.Campbell,Grammatical Man,1982,rep.Harmondsworth,1984,p.272. 尚、同書の後書き(afterword) は、"Aristotle and DNA" と題され、ほとんどがアリストテレスに関する叙述に当てられている。

*(8) アリストテレスは父親が形相因を与え母親が質料因を与えると考えている(GA A20:729a9-11,28-33) 。

*(9) この点は近代の目的論批判の基調をなそう。デカルトに次のような記述が見られる。「…われわれは、自然的事物に関しては、神または自然がそれらをつくるときに立てた目的から、それら事物の存在理由をとりだそうなどとは、けっしてしないであろう。というのは、われわれは、神の計画に参与していると考えるほどに、思いあがってはならないからである。(『哲学原理』T28、井上庄七・水野和久訳、野田又夫編 『デカルト』中央公論社、19 所収 344頁) 」「目的という観点からひきだされるのをつねとする原因の類の全体は、自然的事物においてはなんの役にもたたぬと断定するのである。なぜなら、私が神の目的を詮索しうると考えるのは、思い上がりもはなはだしいからである。(『省察』4、井上庄七・森啓訳、同書所収 275頁) 」こうしたデカルトのテキストの指定は次による。それには他の箇所も引用検討されている。J.Cottingham,Descartes,Oxford,1986,p.16,p.98.

*(10) 例えば、S.Sambursky の次の叙述に見られよう。"For Aristotle all conformity to law is teleological, like that displayed in the artist's creation. The regular recurrence of natural phenomena is the manifestation of this type of law in which both plan and purpose are evident; ..."(op.cit.,pp.84-85, 強調引用者).

*(11) D.Furley,"The Rainfall Example in Physics II 8",in A.Gotthelf ed.,Aristotle on Nature and Living Things,Pittsburgh,1985,D.Sedley,"Is Aristotle's Teleology Anthropocentric ?", Phronesis 36,1991,cf.R.Sorabji,Necessity,Cause and Blame,London,1980,p.147,n.8,S.Waterlow,Nature,Change,and Agency in Aristotle's Physics,Oxford,1982,p.80,n.29.

*(12) トマスは、摂理の問題であることを次のようにいっている。目的を知らないものは、目的を知るものに導かれるのでなければ、目的に向かわない。それゆえ、自然が目的の為に働くとすれば、知的なものによって秩序づけられなければならない。これは摂理の仕事である。in Phys.II.lect.xii,n.250.

*(13) ここでの検討は『自然学』の降雨事例の箇所に限り、傍証として挙げられるテキストについては割愛する。Sedley(前註11) の解釈は次で主題的に検討批判されているけれども、降雨事例の解釈については Sedley の解釈をほとんど追認している。R.Wardy,"Aristotelian Rainfall or the Lore of Averages",Phronesis,38,1992.

*(14) ここでの番号付けは Sedley のものではない。Sedley批判を主題とするWardy(1992) でさえこうした解釈が導かれる道筋について問題としておらず、容認しているようにみえる(p.19)。

*(15) それゆえ、降雨の目的論的解釈を防ぐために、(1) に生体の部分(目的因論的領域)に領域限定を設定する解釈を排しているのは正当である(p.183) 。こうした解釈について、前章註(18)参照。

*(16) 彼が参照指示する箇所(Cael.IV 3:310a34)では、四元の自然運動が形相への運動であると言われている。形相が目的因であることを念頭におけば、目的論と理解されるのであろう。Wardy はこのことを承認している(op.cit.,p.20)。

*(17) (3) が領域限定をもつ私の解釈では、こうした解釈はとれない。Wardy は、冬の雨についてのSedleyの解釈を容認するが、夏の雨についての彼の解釈は認めず、夏の雨も或る目的の為に降る可能性を指摘している(op.cit.,pp.21-22)。

*(18) ストア派とアリストテレスは一般的にむしろ対比的に考えられている。A.A.Long,Hellenistic Philosophy,2nd ed.,London,1986,pp.151-152.

*(19) この箇所は、アリストテレスの目的論が個体レベルに留まるものであることを示す典拠としてしばしば言及される。生物異種での何らか目的連関が想定されてきたのは、Rossがそうした「(疑わしい)示唆をするのは、おそらくここだけだ」と指定した箇所(PA Δ13:696b27-30,cf.Pol.A8:1256b15-22)に限られる。D.Ross,Aristotle,London,1923,1949 4 ,p.126. これらの箇所は、Sedley,Wardyも扱うが、次を参照。D.Balme,"Teleology and Necessity",in A.Gotthelf et al.eds.,Philosophical Issues in Aristotle's Biology,Cambridge,1987,pp.277-279. Balme は、別の典拠を含めた考察から、目的論の範囲を、更に生物、月下界に限定している。

*(20) 自然事象と第一動者の関係については、次でテキストが収集分析されている。C.Kahn,"The Place of the Prime Mover in Aristotle's Teleology", in A.Gotthelf ed.,op.cit. Kahnは、第一動者について、近年の多くの研究者のように天体に対するいわば機械論的役割に限定せず、月下界への目的論的役割を読み取ろうとしている。

*(21) 生命現象とは、人間に固有な精神現象(思考)を除く心理学的現象と生物学的現象を指す(cf.PA A1:641a17-32)

*(22) このような心的過程の介在に有無に着目した問題設定は、次に見られる。S.Brodie,"Nature and Craft in Aristotelian Teleology",in D.Devereux et al.eds.,Biologie,Logique et Metaphysique chez Aristote,Paris,1990, D.Charles,"Teleological Explanation in the Physics",in L.Judson ed.,Aristotle's Physics,Oxford,1991.

*(23) 自然現象への第一動者の制御について、本章2節で、アリストテレスの目的論的自然学の構想に含まれないことを論じた。

*(24) Charles は、こうした特性が行為論的目的論と機能的目的論とに共通することを認めながらも(op.cit.,pp.114-116)、アリストテレスの目的論がその何れであるか曖昧であり、「適切に区別されていない」という(ibid.,p.127) 。本論では、明晰に区別されていることを以下に示したい。「技術」は行為の考察でも自然の考察でも問題となるが、「技術」それ自体の特性が問題ではなく、それぞれの考察のモデルとして加工されるのである。

*(25) 既に第2章第4節においても見たように(分節V3)、アリストテレスは「技術は思案しない」という訳である。これについては次節で更に検討する。

*(26) 動物論における自然と技術の類比の用例として、例えば次を参照。G.E.R.Lloyd,Polarity and Analogy,Cambridge,1966,rep.Bristol,1992,pp.285-286. 四原因説について Lloydが動物論から与える用例は方法論的考察(『動物部分論』A巻)に限られている(op.cit,pp.288-289) 。

*(27) 「解説のモデル」「発見のモデル」という概念は、ヘッセによる科学哲学者(キャンベルとデュエム)の想定問答に着想をえたものであるが、ここでは素朴な仕方で用いている。M.ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』(高田紀代志訳)培風館,1986,第1章。

*(28) Brodie(op.cit.,pp.402-403)は、否定的な意味で技術の「脱心理過程化」であるというが、本論はそれを方法論的なことであると考える。アリストテレスは、また別の著作では、自然との類比において、技術の働きを「道具の活動」として描いている(GA B1:735a1) 。それは、思案といった心的過程の介在がなくとも、特定の目的と使用方法とが確定していることをいっていると考える。 

 

第4章

*(1) 定義論で中心的事例となる月蝕について、四原因による分析がなされる際、「目的因はおそらくない(Metaph.H4:1044b12) 」とされる。目的因がない事象とは正確にどんな事象であるかは別に考察すべき問題であるが、月蝕は後に見るように「事象の存在とその原因が別であるもの」という分類に入るものであり、月蝕の原因についてその事象の存在を支える実体(月)とは別の存在(地球)に言及しなければならないということがその問題に関わっているように考えられる。先に自然現象の目的論を論じた際、生物異種間で目的論的連関が設定されるとすれば、自然界の秩序といった問題を招来するけれども、アリストテレスにそうした想定はないことに触れた。月蝕について目的因を想定することは、月と地球という異なる実体の間に何らか目的因的連関を想定することになる訳であり、アリストテレスはそれを避けたと考える。
 尚、月蝕については質料因もない訳であるが、この点については、一般的に「自然によるけれども実体でないものには、質料はなく、その実体がその基体である(Metaph.H4:1044b8-9)」とされている。つまり、月蝕についての質料因は、基体としての「月」が代替するのである(Metaph.H4:1044b9-11) 。

*(2) 「一応」というのは、B巻13章でここでの考察が確認され(B13:96a20-22)、定義の考察が再開されるからである。しかし、13章からの考察は、本論での問題に直接関わらない。

*(3) 「名が何を意味するか」の定式は「名目的定義」として後に考察する。「本質(το τι ην ειναι )」という表現はむしろ稀であるけれども(B8:93a19,cf.B11:94a21,34-36) 、明確化のためのこの表現を用いる。

*(4) ここでのテキストの読み方については、加藤信朗氏の『分析論後書』訳註参照。『アリストテレス全集1』岩波書店,1971,818-19頁(第二巻第八章(4) )。

*(5) 『分析論後書』A巻での定義と基礎措定は、論証知の原理(αρχαι) 論の中でも特にそれ自体論じるべき問題を抱えている。この問題について、修士論文で論じたことがあるけれども、その詳細には立ち入らず、本論では、基礎措定は広義の定義の一つであるが、「存在( το ειναι, οτι εστι ) 」が容認される原理という点で、存在が容認されない狭義の定義(例えば「三角形の定義」)とは区別されるという解釈をとる。

*(6) アリストテレス自身が雷鳴の定義を実際このように与えるかどうかは別問題であり(cf.Mete.B9:369b14-17)、ここでは方法論的考察に限られるといってよい。それがアリストテレスが後に留保をつける意味であろう(B8:93b12-13) 。

*(7) 別の著作でも、事象とその原因を共に定義とすべきことが指摘される。「〔或る事象の〕形相はその定義であるが、定義が原因を伴わない場合、定義は不明瞭である。
例えば、月蝕は何であるか。光の欠如である。さて、「地球が〔月と太陽の〕間にくることによって」を付加する場合、それが原因を伴った定義である。(Metaph.H4:1044b12-15)」

*(8) こうした指摘は、次に見られる。J.Ackrill,"Aristotle's Theory of Definition", in E.Berti ed.,Aristotle on Science,Padua,1981,pp.365-66, B.C.van Fraassen, "A Re-examination of Aristotle's Philosophy of Science",Dialogue 19,1980,p.26.

*(9) (α1)から(β2)に到る4種が、探求の対象であるとともに、知の対象でもあるとされる(B1:89b23-24,B2:36-37)。それぞれの文脈でその何れであるかは判明である。

もちろん、文法的には、例えば(α1)「…こと(οτι ) 」は知の目的節となっても、探求の場合は「…かどうか( ποτερον ) 」を目的節とすべきであるが、Barnesのようにこうした点でアリストテレスを批判するのは適当でない (J.Barnes,Aristotle:Posterior Analytics,2nd ed.,Oxford,1994,p.203)。アリストテレスのB巻1章での問題の一つは、まさにその点に関わり、探求の対象である「問い( ποτερον ) 」と知の対象である「答え( οτι ) 」とを同一表現( οτι ) で定型化することにあるからである。「存在するかどうか( ει εστι ) 」と「存在すること( οτι εστι )」も(β1)同一表現( ει εστι ,89b24) で定型化されるが、(β1)は同じ章で既に保持されていない(89b34) 。

" εις αριθον θεντες "(B1:89b25-26) という語句は、解釈上問題とされてきたが (D.Ross,Aristotle's Prior and Posterior Analytics,Oxford,1949,p.610,ad 89b25)、まさにこうした点に関わる。それは、「数に関して四つの型を定めた以上」といった意味であり、その文の意図は、問いの文法的表現" ποτερον " を、" οτι " に定型化することにあると考える。Waitz の次の註釈は必ずしも明晰でないが、Rossの紹介とは異なり、こうした解釈を与えているかもしれない。「提示された問いの一つ一つ(確かにそれらは相互に排他的である)を数えたので。というのは、もし何か無視されていれば提示された問いが扱い尽くされていないので、数えなければならない。」T.Waitz,Aristotelis Organon Graece,Leipzig,1846,II,p.380,ad 89b25.

*(10) 「〔月は〕蝕である」といった「ある」の繋辞用法では読めない。繋辞用法で読みうるのは「月は蝕するものである( εκλειπουσα εστι, cf.Int.12:21b9-10,Metaph. Δ7:1017a27-30) 」と表現される場合である。「ある」を繋辞用法で読もうとするのは、『分析論後書』で一貫してそう解釈する Gomez-Loboと、一つの可能性として挙げる Ackrillである。A.Gomez-Lobo,"Definition in Aristotle's Posterior Analytics",in D.J.O'Meara ed.,Studies in Aristotle,Washinton,D.C.,1981,esp.p.38, Ackrill,op.cit.,pp.360-362. Ackrillが証拠とする箇所(B10:94a7-8)では明示される訳ではなく(cf.B8:93a22-24)、後に述べるように、項の言い換えの問題として考えられる(cf.A10:76b35-39,APr.A35) 。

*(11) 月についても太陽についても述べられる意味での蝕は、「光の欠如」と言い換えることができよう(cf.B8:93a23) 。

*(12) こうした定式化がなされるまでには、次のような手続きを経ている。(α1)「SはPだ(月は蝕する)」は、(α1') 「部分的にある( οτι εστιν επι μερους,B2:90a2,cf.89b39)」という定式化を経て、(α1'')「〔主語Sの〕自体的または付帯的属性(P)がある( το ειναι ... τι των καθ'αυτο η κατα συμβεβηκος <υπαρχοντων>,B2:90a9-11,cf.90a32-33)」と定式化される。そして、属性Pの一例として「蝕(εκλειψις, B2:90a13) 」が挙げられる。ここで、属性「蝕」が「日蝕」を排除し「月蝕」を意味するのであれば、(α1)「月は蝕する」という事態が、(β1)「月蝕」の存在として定式化されているといえる。ところで、属性「蝕」が「月蝕」であることを保証しているのが、その属性が自体的属性であることである。属性が自体的属性であるとは、まさに主語Sの属性として、その属性の定義に主語Sを含むということである(A4:73a37-b3) 。そして、属性「蝕」の定義に主語「月」が含まれるとは、「月蝕」という属性であるということにほかならない。ここに、(β1)「月蝕」の存在のいう定式化の成立をみることができる。(β1)存在、(β2)本質で問われるのは、「SはPだ(月は蝕する)」の単なる属性Pではなく、主語Sをその定義に含むものなのであり、「SにおけるP」という属性である。「SはPだ」は「Tが存在する」と定式化されるのである。前述の整理において、Pと区別してT(=SにおけるP)という記号を用いたのはそのためである。

 この箇所について、Kahnは、同様なこと ("Aristotle thinks of X is Y as equivalent to the XY exists") を、最もありそうな(plausible) 解釈として示唆している。Ch.Kahn,"Retrospect on the Verb `To Be' and the Concept of Being" in S.Knuuttila and J.Hintikka eds.,The Logic of Being,Dordrechet,1986,p.25.n.34. しかし、本論が自体的属性に限って問題とするのに対し、Kahnの解釈はむしろ付帯的属性についてである(ibid,p.27,n.46)。

*(13) 「シモン=鼻の凹み性( κοιλοτης ρινος )」は、月蝕が月の自体的属性であるのと同じ仕方で(A4:73a37-b3) 、鼻の自体的属性である(SE 13:173b5-8,Ph.A3:186b18-23,Metaph.Z5:1030b23-26)。ところで、シモンについて次のような指摘がなされている(SE 31:181b35-182a3,181b36の Ross の付加は読まない)。「凹んだ鼻( ρις κοιλη) 」も「シモンな鼻( ρις σιμη )」も意味の相違はない。それは、「凹み」は単独では( χωρις ) 「がに股性( το ροικον ) 」とも共通な「凹み性( κοιλοτης )」を意味するが、「凹んだ鼻」という句においては( εν τω λογω )「シモン」を意味するからである。つまり、月蝕に敷衍すれば、「蝕する」が、主語である月を離れるならば、日蝕とも共通なこと(光の欠如)を意味し月蝕を意味しないのであるが、「月が蝕する(光を欠如する)」という場合は、月蝕を意味するのである。

*(14) 雷鳴は「雲で音がする」という定式化されるが、これは、「雲」が「音がする」の真正な主語ではないことを示しており、月蝕と雷鳴との非平行性を示唆する。月蝕の原因は、地球の遮蔽であり、その原因は日蝕の原因ではない。しかし、雷鳴の原因とされるのは「火の消去」である。「火の消去」自体は、一般的に「音を発する」現象の原因であると考えられ、雷鳴の原因はその一事例として「雲での火の消去」として与えられよう。それゆえ、先に引用した雷鳴についての論証に見られるように、大項 は「雷鳴」と提示されながら、他の項と連結するとき大項は「音」として現れる(B8:93b9,11-12,cf.B10:94a8-9) と考えられる。つまり、雷鳴の場合、雲(S)に固有な音(P)の原因ではなく、音(P)の原因が探求されるのである。

*(15) こうした(γ)原因の探求と(ε)中項の探求は、実体(人間・神)の場合も含んでおり、その場合解釈問題を含んでいる。『分析論後書』で実体は「存在とその原因が同じもの」として処理されていると考えられるので(Ross,op.cit.,p.629,cf.Metaph.Δ18:1022a33-35,pace Barnes,op.cit.,p.217)、(γ)原因の存在と原因の「何であるか」の探求と(ε)中項の存在と中項の「何であるか」の探求は、そのまま実体の存在とその本質の探求であろう。しかし、こうした原因(=中項)の探求が実質的意味をもつのは、『形而上学』でのように(Metaph.Z17:1041a32-b11)、実体が質料と形相に分析される場合であろう。しかし、よく知られるように、アリストテレスの論理学的著作に、質料概念はないのである(e.g.Ross,op.cit.,p.639)。

*(16) Ackrillは、「存在すること」が「原因がある」と等しいことから、「観察される存在すること」ではなく「科学的説明が可能なこととして存在すること」とした(op.cit.,pp.377f.)。これは正当な指摘であり、以下その意味をより明確にしたい。

*(17) Zabarellaはこれを付帯的把握とするけれども(Opera Logica,pp.1112ff)、これについては次を参照。J.L.Ackrill,op.cit.,pp.371-374.

*(18) 「或る」の限定には、次が着目している。R.Bolton,"Essentialism and Semantic Theory in Aristotle",Philosophical Review 85,1976,pp.529f. R.Sorabji,Necessity,Cause and Blame,London,1980,p.196. 本論の趣旨は Sorabjiに近い。但し、Bolton、Sorabji とも後に考察する「名目的定義」の問題を絡めている。

*(19) Demoss and Devereuxは「存在の知〔存在把握〕」の意味を「直面した時に真正な事例を見分けられる能力」とするが、存在把握の意味をそれ以上考察しない。D.Demoss and D.Devereux,"Essence,Existence,and Nominal Definition in Aristotle's Posteriora Analytics II 8-10",Phronesis 33,1988,pp.145-146.

*(20) "ολως " は、 WaitzやRossの註釈また多くの訳者のように否定詞とともに読むことをせず、" νυν " との対比と解釈した。そうした訳として、" ... but not the reason for that fact, universally taken, ..."(Apostle),"... aber nicht das Warum 7berhapt (im allgemeinen),..."(Seidl)。但し、写本問題もある(Waitz,op.cit.,ad 88a1) 。

*(21) 「月面上にいるとすれば、『月蝕が生じるか(≒存在するか)』も『何故〔月蝕が生じる〕か』も探求しないであろう。むしろ〔『月蝕が生じるか』『何故月蝕が生じるか』は〕同時に明らかであろう。というのも、知覚することから、我々は普遍も知るようになろうからである。(B2:90a26-27) 」

*(22) Bolton は、「存在( οτι εστιν ) 把握」を、B巻19章における「知覚」「記憶」 の次の段階に当たる「経験( εμπειρια )」の成立と重ねているけれども(op.cit.,p.530) 、経験でも不十分であろう。というのも、経験は「多」の把握でありまだ「一」 の把握に到っていないからである(B19:100a6-8,Metaph.A1:981a5-7) 。経験と知識の区別について次に学んだ。村田剛一「エピステーメーの問題」『哲学論文集』第22輯,1986.

*(23) R.Bolton,op.cit.,p.531,p.533. R.Sorabji,op.cit.,p.196. Gomez-Lobo,op.cit.,pp.40-41.D.Demoss and D.Devereux,op.cit.,pp.144-146. 尚、本論では扱わないが、非存在物(例えば、架空動物トラゲラポス)の名目的定義を認めるか否かという問題が関わり、そうした名目的定義を認める場合、一部の名目的定義にのみ存在把握を想定することになる。
   ところで、こうした解釈のもつ背景について明らかにしておくべきであろう。つまり、当時英米で盛んに議論されていたクリプキやパトナムの自然種の名前に関する指示理論を背景としているのである。Boltonは、そうした理論とは独立であり年代的にも先行することを付記するけれども、次のような表現は影響ぬきには考えにくい。

Boltonのいう「名目的定義」は、自然種名の実例に親しんでいる者が持っている理解を定式化したものである。そして、「名目的定義」は、自然種の本質を特定(display) しないが何らか指示(refer) するとするのである。Boltonが主張しようとすることは、クリプキの例えば次のような言説と類縁性をもつ。

こうした Bolton の解釈は、Sorabji や Wiggns(D.Wiggins,Sameness and Substance,Oxford,1980,p.78,n.1)等に歓迎されたけれども、他方、Ackrill によってテキストの読みがずさんでありとして黙殺された(op.cit.,p.375,n.8) 。

 私は、Ackrill を支持するが、Boltonの摘出しようとした問題が無意味であるとは考えない。但し、別の仕方で考えるべきであろう。アリストテレスは、論証の前提は、「その人がXだと知っているもののすべて」という仕方ではなく、端的に「すべてのX」という仕方でなければならないとする(A1:71a34-5)。「すべてのX」を確定できるのは、「本質を示す定義」だけであり、他のどんな記述も確定することはできない。「本質を示す定義」でない記述──そうした記述はただ「思いなし」による記述でしかない──から、物(の外延)を確定しようとする試みは禁止されるのである。

「名目的定義」は、「本質を示す定義」でない以上、「すべてのX」を確定するものではない。この点はBoltonも承知することである。しかし、名前と物との間に、実例についての理解の定式化として「名目的定義」を置き、「名目的定義」が本質を指示すると考えることは、問題をより不明瞭にしているとしか思えない。クリプキの引用に示唆されるように、本質を指示するという機能は、「名目的定義」ではなく、「名前」が担う機能であると考えるので十分であり、その方が正当であろう。「名目的定義」は、ただ名前に言い換えを与えるといった言語に関わる機能であり、それが直接、物(世界)に関わるのではない。尚、名前の指示の問題は、次章の「全称性」の問題に関連する。

*(24) ここでの訳は、伝統的な読み方( " η " を "i.e." と読む)に対して、 Ross が提示し今日多くの研究者が従う読み方による(op.cit.,p.635) 。「名目的定義」という概念は、伝統的な読み方の中で、" λογος ονοματωδης (ratio nominalis, tr.Moerbeke) " という表現から生まれたと考えられる。

*(25) Bolton(op.cit.,p.522),Sorabji(op.cit.,p.196),Demoss and Devereux(op.cit.,pp.135-136). Rossは、「名目的定義」を「論証の結論」のもとに総括するが、その双方に存在把握を認めないという解釈をとる(op.cit.,p.635) 。

*(26) 「名目的定義」の問題を『分析論前書』B巻27章の「徴象( σημειον ) 」の問題(例えば「妊娠」の徴象は「乳がでること」)に関連づける議論がある。その場合、「名目的定義」の内実として「我々の常識・了解( ενδοξα )」の線がうまく捉えられる。 Bolton にもそうした指摘があるが(op.cit.,p.532,n.37)、C.A.Freeland,"Scientific Explanation and Empirical Data in Aristotle's Meteorology",Oxford Studies of Ancient Philosophy 8,1990 を参照。

*(27) この引用文は、本文に示す理解が正当であるが、「本質を指示するが本質を特定しない」といった独特な解釈が提示されている。Bolton,op.cit.,p.524,p.528,n.27.Sorabji,op.cit.,p.196. 前註(23)参照。

*(28) この箇所について、或いはその文脈について、多くの解釈がなされているが、 Ackrillの挙げる二つが正当であり(op.cit.,p.375) 、本文はその一つに従っている。Ackrill の挙げるいづれの解釈をとるにしても本文の趣旨には影響しない。「名目的定義」に存在把握を想定する解釈にとって致命的なこの箇所について、存在把握を想定する論者からの独特の解釈として、Bolton(op.cit.,p.539) 、Sorabji(op.cit.,p.197,n.59) を参照。

*(29) Burnyeat の次のような指摘は正当である。"He thus sides with those modern philosophers of science who hold that scientific explanation is in the first instance explanation of generalities (law) rather than the explanation of particular events."(M.F.Burnyeat,"Aristotle on Understanding Knowledge",in E.Berti ed.,op.cit.,p.109) しかし、個々の事象の説明(法則による包括)が排除される訳ではない。こうした問題は、本論最終章において考察する問題に関わる。

*(30) 西欧で初めての『分析論後書』註釈書を残した Grossetesteは、A巻8章のこの文章に対して、「端的な意味での月蝕は常に原因連関(ratio causalis)の中にあるが、個別の月蝕は常に原因連関の中にない。……月が地球の影に入るときはいつでも、月は蝕をうける」とコメントしている(P.Rossi ed.,Commentarius in Posteriorum Analyticorum,Florence,1981,p.144)。「月が地球の影に入るときはいつでも、月は蝕をうける」が月蝕の自然法則に当たる。月蝕をこのように捉えれば、月蝕の知識を常にもっている。しかし、このように捉えなければ、月蝕の知識は常になく、個別的である。

このことは恒常的事象一般についても同様である。恒常的事象を定義が規定するもので捉えなければ、その知識は常になく、個別的である。恒常的事象の知識が個別的であるというのは、次章で論じるように、個々の事象特有の性質を捉え、定義のもとで捉えていないということである。この点を理解していないことが、別写本を援用する解釈を導いている。Barnes,op.cit.,p.134、W.J.Verdenius,"Note on Some Passages from Book I",in E.Berti ed.,op.cit.,p.347.

自然による恒常的事象を「常なる事象」として捉えうる点は、『自然学』についても確認した。つまり、自然による生成は、何の妨げもなければ、常に生じるのである(Ph.B8:199b25-16) 。この場合、妨げは個々の事象の問題(質料の問題)として処理され、自然事象を一般的に(形相として)把握するときは「常なる事象」である。

 尚、引用文の後半「そうでない限りで、〔知識は〕常になく、個別的である」は、通常「常にない限りで、〔知識は〕個別的である」と訳される。引用文前半との対応を保つため、"η μεν τοιουδ' εισιν, αει εισιν, η δ' ουκ αει, κατα μερος εισιν "というテキストに、" η μεν τοιουδ' εισιν, αει εισιν, η δ', ουκ αει, κατα μερος εισιν " という句点を付けて解した。

 

第5章

*(1) この箇所のテキスト解釈は、前章最終註を参照。

*(2) 数学においては、第4章第1節で触れたように、定義(基礎措定)されるもの(例えば幾何学での点・線)がそれ自体原因として事象のあり方(存在)を規定しているというべきであり、「記述」というべきではない。しかし、以下の議論は、確立された定義を問題とし探求過程には関わらないので、こうした数学の独自性が一般的考察の妨げにはならないと考えている。
尚、数学における原因概念として、形相因と『分析論後書』に独自の前提因(論理的必然因)と呼ばれるべき原因がある(B11:94a24-35)。

*(3) Lear は、「間違った仕方の知識のもち方」をテクニカルな仕方で扱う『分析論後書』誤謬論(A16-17)の問題を、"given that one knows oneself to be in a state of ignorance, is there a systematic method of searching for the source of one's error ?" と規定している。J.Lear,Aristotle and Logical Theory,Cambridge,1980,p.91.

*(4) H.Bonitz,Index Aristotelicus,Berlin,1870,533b36sqq.

*(5) この点にアリストテレス自身認める問題がある。アリストテレスは、三段論法(妥当な推論)において、前提と結論の真理値と前提と結論の必然様相を並行的に扱い、結論が真であっても前提が真であるとは限らないように、結論が必然的であっても前提が必然的とは限らないと指摘している(A6:75a1-4) 。この問題の回避を求められるのは原因の概念であると思われる。妥当な推論における前提は結論に対して原因であるとされる( το τινων οντων αναγκη τουτ' ειναι, B11:94a21-22) 。しかし、妥当な推論において、前提が偽である場合、前提の故に(前提を原因として)結論は真であるとはいい難い〔検討を要するけれども、三段論法の定義で述べられるの前提( τεθεντων τινων, APr.A1:24b19)と原因として述べられる前提( τινων οντων ) との扱いの相違が注目される〕。つまり、前提を原因として結論が真であるのは前提が真の場合に限られるとすれば、それと並行的に、前提を原因として結論が必然的であるのは前提が必然的である場合に限られるであろう(cf.A6:74b30-32)。

*(6) 最新の註釈でも保持されている。J.Barnes,Aristotle,Posterior Analytics,2nd ed.,Oxford,1993,p.114,p.119. 全称性と自体性に焦点を当てたものだが、古代からルネサンス期に到るこうした解釈は次で概観されている。J.Van Rijen,Aspects of Aristotle's Logic of Modalities,Dordrecht,1989,pp.133-145,esp.p.133. 自体性をみたさず全称性みたすものは、"accidens commune","accidens inseparabile"と呼ばれ、(今日まで帰納や確証の問題において有名となる)「カラスは黒い」といった事例が想定されもした。apud Van Rijen, ibid.

*(7) Van Rijen は同様の指摘をするけれども(op.cit.,p.170) 、必然性の保証に全称性が必要であるとする点で、本論文と解釈の展開が異なる。後に述べる自体性(2) について、全称性を含むという解釈は特に困難を伴う。例えば、自体性(2) の事例「線は直(線)である」を全称化して「すべての線は直(線)である」とできないという点である。この問題への解釈として、次を参照。M.Ferejohn, The Origins of Aristotelian Science,New Haven,1991,pp.103-108.

*(8) 「三角形─2R」命題の自体性(S) に関し、自体性(1) であることは否定されている(Metaph.Δ30:1025a30-32)。そして、自体性(2) でもないと考える。その典拠は、次に求めたい。現在の事例について、〔 〕の補いによって解釈を示す。

しかしながら、自体性(S) は個々の事例で考えるべき問題をもつ。前章で扱った月蝕の論証での結論「月は蝕する」は、その第2節で述べたように自体性(2) となろう。

*(9)  もう一つの前提は「線」と「二直角に等しい内角をもつ」とを自体性(2) の仕方で連関させるものであると考える。前註(8) 引用参照。

*(10) 「或るもの( τι )」「これ( οδε ) 」と平行的に「或る場合( ποτε )」「今( νυν ) 」が用いられているが、これは名詞ではなく文で示される事象についての量化を示唆し、自然事象(例えば月蝕)の量化方法に関わる。その「すべての」に応じる全称形は「常に」であると推測される。

*(11) 自体性(1)(2)それぞれについてもそうであろう(Barnes,op.cit.,p.112)。但し、自体性(2) については問題を残している(A4:73b29-30) 。

*(12) 伝統的解釈の枠組みの中で、普遍性は自体性よりも強い条件をもつ訳だが、そのとき着目され現在までの有力候補は「最先性」である。e.g.R.D.McKirahan,Principles and Proofs,Princeton,1992,p.97,cf.Barnes,op.cit.,p.119. しかし、以下で明らかにするように、最先性は(任意性をもつ個別命題に対して)自体性と同じ役割をするものである。

*(13) 普遍性( καθολου ) は任意性と最先性( πρωτον )によって規定されているので、" καθολου πρωτον "は冗語表現に見える。しかし、" καθολου " が単独ではなく最先性と組みで用いられる場合、その語は最先性について、一般的な方向での最先か、それとも、個別的な方向での最先か(B18:99b9-10) を区別する意味で用いていると考えられる。この場合、普遍性と区別して「一般性」という訳語を当てる。

*(14) 外延性で十分だという次の批判は、知識の対象としての必然性という観点を看過している。G.E.M.Anscombe and P.T.Geach,Three Philosophers,Oxford,1961,p.6.野本和幸・藤沢郁夫訳『三人の哲学者』勁草書房,1992,6−7頁。

*(15) 同名同義性はしばしばその重要性が強調される(A11:77a9,A24:85b15-18,B13:97b30,36-37)

 

 



 

 

 

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