『自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に関する研究』 (1999)

第5章 論証知と個別事象の認識

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notes

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第1節 知識と必然性
第2節 自体性                     
第3節 全称性                    
第4節 普遍性の問題                 
第5節 個別命題の必然性


  前章第5節において、自然事象の定義を通じて、自然事象を知ること(原因の認知と必然性の認知)が成立することを示唆した。原因の定義としての定式化を、自然法則と理解すれば、自然法則は法則的必然性をもつ。また自然法則は自然事象に原因を与える(説明する)であろう。しかし、自然法則は自然事象に必然性を付与しうるのであろうか。アリストテレスは、知識の対象としての(例外を含む)恒常的事象について次のように述べる。「恒常的事象(例えば月蝕)はこのようなものである限りで( η μεν τοιουδ' εισιν )、常にある」と述べる(A8:75b33-36) [1]。その意味が解明されるべきである。

 本章では「…限りで〔…として〕( η ) 」(本文で「観点性」と呼ぶ)という表現が、個々の事象について必然性を付与する装置を表していることを、その表現が現れる一連の考察の中から明らかにする。それは、数学の事例を用いた考察である。しかし、確立した定義を通じて個々の事象を知ることにおいては、むしろ数学を範型とし、数学と共通していると考える。それゆえ、以下の考察はそのほとんどが数学の事例であるけれども、自然事象についても適応しうる一般的考察として検討したい。

 さて、自然事象を念頭におきつつ考えた場合、『分析論後書』の論証を通じた知識という学問構想において、個々の事象についての必然性の認知に関する問題を次のように指摘できる。論証( αποδειξις ) を通じて成立する知識は、必然的な命題についての知識である(A4:73a21-23) 。ところで、必然的な命題とは「自体的」と呼ばれる命題であり、その命題を構成する主語項と述語項とがそれらの定義を介して分析的関係となる命題をいう(A4:73a34-b5,16-24) 。命題が論証を通じて定義を介して分析的であることが示されれば、その命題を必然的であると判断でき、その命題についての知識が成立するのである。

 しかしながら、このような知識の成立は或る問題をはらんでいる。つまり、定義はもともと自然事象を原因の連関において記述したものであるとしても[2]、ひとたび定義を介して命題が項の意味連関によって必然的であると判断される場合、そこで成立する知識は、言語的知識に留まり、知覚される個々の自然事象に関わる知識とはいえないのではないか。つまり、知識の対象がもつ必然性とは、分析性によって命題について成立することであり、命題が表す個々の事象のあり方について成立することではないのではないか。こうした問題が、アリストテレスの学問構想に対し指摘されるであろう。

 本章では、先ず、知識が必然性に関わるとされる場合、必然的な対象が存在すれば知識が成立するということではなく、逆に知識が成立しているならばその対象は必然的でなければならないという仕方で、必然性が知識の対象として問題になることを確認する(第1節)。そして、必然性の内実である「自体性」をめぐる一連の考察を、伝統的解釈を退け、次のような連関において示す。そこでは「自体性」「全称性」「普遍性」と呼ばれるそれぞれの概念が問題となるが、「自体性」は必然性を意味連関して与え(第2節)、「全称性」は個々すべてのものを指示することを保証し(第3節)、「普遍性」はその二つの概念をともに含む(第4節)。そして、「普遍性」において、個々の事象についての必然性(個別命題の必然性)という問題がアリストテレスによって解明されていることを明らかにする(第5節)


第1節 知識と必然性

 知識の対象は必然的であるという見解の背景を先ず探っておきたい。それは、次のような了解に由来している。つまり、一方で、対象が必然的でない(他の仕方でもありえる)と思う場合には、知っているとは思わず、他方で、対象が必然的である(他の仕方ではありない)と思う場合に、知っていると思うという了解である(A2:71b9-12,A33:89a6-8,cf.A6:75a15-16)。こうした了解において理解されなければならないのは、ソクラテスに遡る問答を通じた「知の吟味」(cf.SE 2:165b4-7,8:169b23-29,11:171b4-6)において問われてきた知識であろう。もし知識が個々の状況を知覚することに依存するのであれば、知覚が遮られ、或いは状況が変化することで、たちまちその知識は失われてしまう(cf. APr.B21:67a39-b2, Metaph.Z15:1040a2-4) 。そうした知識が問われているのではない。

  或る者が、或る事柄を知っていると言うとする。その者の知識は、文として表明されるが、その文が吟味の対象となる(ここでいう文とは典型的にはその事柄の定義である)。その文が論駁されるならば、その者はその文を撤回し知っていないと認めざるをえない。知っているのであれば、問答によって考えを翻してはならない( αμεταπειστον υπο λογου,Top.E4:133b30-134a,E5:134a35,cf.A2:72b3-4) 。つまり、知っているのであれば、自分が知識の表明として述べた文(A)と矛盾する文(¬A)を認める可能性がないことはもちろん、矛盾する文(¬A)を帰結するような別の文(B)を認める可能性も一切ないのである(cf.A2:72b1-3)。このように、その文(A)が問答を通じて偽とされる可能性がないと判断される場合、その文(A)は必然的であると判断され、自らの知識の成立が確認されるのである。

 こうした問答において吟味されるべき無知は、例えば、幾何学の知識を全くもってないこと( το μη εχειν,cf.A18)ではなく、幾何学の知識を間違った仕方でもつこと( το φαυλως εχειν,cf.A16-17) であろう(A12:77b25-26)。つまり、その者のもつ幾何学体系についての信念には誤りが含まれているのである。問われているのは、その者の知識のもち方( A16:79b23-24,cf.EN Z3:1139b31-32)なのである[3]

 真であるが必然的ではないと判断する場合は、思いなし( δοξα )であり知識ではない(A33:88b30-89a10) 。では、知っている者は、どのようにして必然的であると判断するのであろうか。知識の対象と思いなしの対象は同じものではないという議論の中で、知識の対象はすべて思いなしの対象にもなりうるのではないかという疑問(A33:89a12-13)を契機として、その解明が図られている。例えば、一方で「人間は動物である」と知っている場合、必然的である(人間が動物でないことはありえない)と判断する訳だが、他方で「人間は動物である」と思いなす場合、必然的ではない(人間が動物でないことはありえる)と判断する(A33:89a33-36,89b4-6) 。しかし同じ人が両方の判断をすることはありえない(A33:89a38-b4)。この場合、知る者と思いなす者の判断の相違は次の点にある。知る者は、人間は「正に動物であるもの( οπερ ζωον ) 」であり、それが動物であると判断する。人間が「正に動物であるもの」であるとは、用法上[4]、人間をその定義に動物が含まれるものとして理解することである。この場合、人間が動物でないことはありえない(A33:89b4-5,cf.89a33-35)。しかし、思いなす者は、人間をその定義に動物が含まれるものでない( μη οπερ ζωον )と理解しており、人間が動物でないことがありえると判断するのである(A33:89b4-6,cf.89a34-36)。つまり、人間という同じ物に関わってはいるけれども、その関わり方( ως )が異なるのである(A33:89a36-37)。そして、その相違は、知る者と思いなす者それぞれの、人間という物の定式化( το τι ην ειναι εκατερω κατα τον λογον ) の相違に現れる(cf.A33:89a32)。事柄を必然的と判断するか否かは、その事柄を構成する物の理解(その定式化)の仕方に依存しているのである。

 論証を通じて知識が成立する場合、或る者はその結論を必然的であると判断するが、別の者は必然的ではないと判断することが起こってはならない。それを防ぐのが、論証における定義の役割である。一般に推論においても、もし同じ推論において語が多義的であれば誤謬推論が生じ、もし人によって語の理解が異なり語が多義的であるならば問答は成立しない。推論の項( ορος )は、単なる語( ονομα ) ではなく、定義( ορισμος ) によって一義的に定められたものなのである。論証も問答として、教授・学習という場面をもつが(SE 2:165a39,b8-9)、もちろん、知る者である教授者が、定義を定めるのである(SE 2:165b1-3,Top.Θ5:159a28-30)。それゆえ、次のように述べられるのである。「もし、必然的な事柄〔例えば幾何学の命題〕を、論証の前提となる諸定義を把握する仕方で( ωσπερ εχει τους ορισμους δι' ων αι αποδειξεις,codd.)、判断するならば、その者は思いなしておらず知っていよう。しかし、真であるけれども、主語項と述語項がウーシアに即してつまり形相に即して( κατ' ουσιαν και κατα το ειδος )連関しているのではない〔つまり定義的連関をもたない〕と判断するならば、思いなしてはいようが、真実に知ってはいないであろう。(A33:89a16-21)」

 

第2節 自体性

 知識の対象は必然的であり、論証の結論は必然的でなければならない。アリストテレスは、論証において必然的な結論を導く前提もまた必然的でなければならないとし[5]、論証の前提となる命題のあり方を考察している(A4:73a21-24) 。つまり、論証の前提がそなえるべき必然性の内実を定めているのである。この箇所(A4)で考察されるのは、「全称的に( κατα παντος, 73a26,73a28-34) 」「自体的に( καθ' αυτο, 73a26,73a34-b25)」「普遍的に( καθολου, 73a27,73b26-74a3) 」の三種である(これらをそれぞれ「全称性」「自体性」「普遍性」と呼ぶ)。伝統的には、それぞれ順次条件が強められ、自体性は全称性を含意するがそれ以上の条件をもち、また、普遍性は全称性と自体性とを含意するがそれ以上の条件をもつと解釈されてきた[6]。しかしながら、普遍性が規定されるのは、全称性と自体性とによってなのである(A4:73b26-27) 。そうである以上、普遍性は全称性と自体性の連言以上の特性をもたないと考えるべきであり、全称性と自体性とはそれぞれが区別される特性をもつと考えるべきである[7]。そして、このように考えるとき、一連の議論は新たな相貌のもとで理解されるであろう。

 必然性の内実を定めるという意図からいって、先ず自体性の叙述を確認するのが適当である。必然性に関して、前節で「正にXであるもの」という語句の用法から示唆したのは、主語項と述語項が定義によって連関するということであったが、自体性とは、正にこのことに他ならない。自体性は四種挙げられているが、必然性に関わり、それゆえ、論証に関わるのは、その内二種のみである(A4:73a34-b5,16-24,A6:74b6-10,A22:84a11-17) 。先ず「自体的(1) にAはBである」、例えば「自体的(1) に三角形は〔しかじかの〕線である」とは、述語B(線)が主語A(三角形)の定義に含まれる場合である。そして「自体的(2) にAはBである」、例えば「自体的(2) に〔しかじかの〕線は直である」とは、主語A(線)が述語B(直)の定義に含まれる場合である。このような仕方で、主語項と述語項が定義的連関をなす場合に、その命題は必然的である。そして、前節で見たように、項の定義を理解している以上、その命題は必然的であると判断されるのである。

 ところで、自体性(1)(2)とは区別すべき自体性が、論証において問題となる。アリストテレスは、自体性を規定した後、先の自体性(1)(2)の事例と同じ事例(A4:73b29-30) の他に、新たに「三角形は、二直角に等しい内角をもつ」という命題を事例に挙げる(以下「三角形─2R」とを表記する)。そして、「三角形は、三角形自体に即して、二直角に等しい内角をもつ」と述べている(A4:73b30-32,APr.A35:48a35-36,cf.Metaph.Δ30:1025a30-32)。ところが、この「三角形─2R」命題は、論証の結論( συμπερασμα )に当たるものであり(APr.A35:48a33-37)、論証の前提となる命題について述べられた自体性(1)(2)とは区別して考察する必要がある訳である(この場合の自体性を自体性(S) と呼ぶ)。しかし、この問題をここで詳しく解釈することは避け、以下の議論のために、「三角形─2R」命題の自体性(S) を、前提となる命題の自体性(1)(2)から派生する自体性であるとだけ考えておきたい[8]。その前提の一つは、自体性(1) の事例である「三角形は〔しかじかの〕線である」であり、例えば「三角形は、三つの直線で囲まれた図形である(cf.Euc.I,df.19)」といった三角形の定義を想定できよう[9]。「三角形─2R」命題の自体性(S) は、こうした三角形の定義を介して確保されるものと理解しておきたい。

 ところで、必然性の内実を定めるという本来の意図からすれば、こうした自体性のみで充分なはずである。何故、更に全称性や、それと自体性の連言である普遍性が必要であるのか。そのことを理解するためには、先ず、自体性には欠けているが全称性がもつ特性を明らかにしなければならない。

 

第3節 全称性

 全称性とは、或るBはAであるが、別の或るBはAでないといったことがないことである(A4:73a28,33-34,cf.73a29,34) 。全称性が成立している場合、例えば、すべての人間が動物である場合、もし「これ( οδε ) は人間である」と言うことが真であれば、「これは動物である」と言うことも真であると述べられる(A4:73a29-31, νυν, 73a31,cf.Universal Instantiation: ∀x Bx→Ax├ Bc→Ac) [10]。こうした全称性が問われているのは、論証が典型的には前提も結論も全称肯定命題である推論形式(Barbara) であるからといえよう(A14,cf.B8:93a7-9)。それゆえ、個別命題(「これは動物である」)が導かれる場合、論証を通じた知識とは呼べない。しかし、全称性の内実を理解するためには、ここに述べられる全称命題と個別命題との関わりを正確に捉えなければならない。個別命題「これは動物である」を知るためには、個別命題「これは人間である」と全称命題「すべての人間は動物である」とをそれぞれ合わせて知ること( συνθεωρειν )が必要である(APr.B21:67a33-37,cf.Modus Ponens: Bc →Ac,Bc ├Ac) 。問われるべきは、そこでの全称命題の貢献の仕方である。

 アリストテレスは、全称命題「すべてのB(三角形)はAである」を知ることを、一般的に知ること( η καθολου επιστημη )と個別的に知ること( η καθ' εκαστον επιστημη )に区別する(APr.A21:67a16-19)。全称命題を知る場合、すべてのBについてAであると知っている訳だが、この区別は、Bの事例(instance)についてAであると知る仕方に関わる区別である。例えば、Bの特定事例C(知覚可能な三角形, αισθητον τριγωνον )が存在すると知らない場合、つまり、Cを知覚していない場合(APr.A21:67a39-67b3)、「CはAである」を一般的には知っているが個別的には知らないとされる(APr.A21:67a12-20,cf.67a27-28,A1:71a24-29)。他方、Cを知覚する場合、個別的に知るとされるのである。さて、こうした区別は、全称命題を知る場合、Bの特定事例CがAであると予め個別的に知っているのではないことを明らかにする(APr.A21:67a22-24)。言い換えれば、全称命題を知るとき、予めBの外延を指定して、Bであると知られているすべてのものについて( παντος ου αν ειδωσιν οτι τριγωνον, A1:71b2,cf.71a34,71b4-5)Aであると知るのではない(A1:71a34-b5) 。個々のものがBであると知られる度毎に、「それはAである」と個別的に知るのである。(これまでの論点と次の論点との関連を整理しておきたい)

    「CはAである」を一般的に知る …… 「或るBはAである」と知る
    (Cを知覚していない)             (全称命題から導出される特称命題)                                    
       

    「CはAである」を個別的に知る …… 「このBはAである」と知る
    (Cを知覚している)    

                                                        「CはBである」と知覚する
                                                        「或るBはAである」と知る
     

 しかしながら、「CはAである」を一般的に知ることは、個別的に知ることに比べて、劣る訳ではない(cf.A24,esp.86a10-13,22-29) 。個別的に知りえるのも、一般的に知ることに由来する或る機構が存在するからである。この点に全称命題の貢献が明らかにされる。さてここで、全称命題「すべてのBはAである」から(換位規則を二回適用することで)論理的に導かれるのは、全称命題と同じ主語(B)に「或る」という限定を施した限りの特称命題( 「或るBはAである」 εν μερει, κατα μερος )であることに注意したい。「CはAである」と個別的に知るとは、「CがBである」と知った上で、「このBはAである」と知ることである。それに対して、「CはAである」を一般的に知るとは、「CがBである」という条件を問わずに、いわば特称命題「或るBはAである」として知ることであろう(cf.Metaph.A2:982a23,M10:1087a20-21)。しかし、そもそも「このBはAである」と個別的に知ることが可能になるのは、「CはBである」という知がCをBとして特定し、その特定によって特称命題「或るBはAである」の知(一般的な知)を働かせているからなのである。

 特称命題と区別して、個別命題とはこうした特定が必要になる命題であり、後の考察ために、次の二種を区別しておきたい。一つは、(1) 主語が個物の命題(「これはAである」)であり、その主語を全称命題の主語(B)で特定するため、「これはBである」と知覚する必要がある(A1:71a18-21,APr.B21:67a25,Metaph.M10:1086b34-36,cf.A13:79a4-6)。もう一つは、(2) 主語が全称命題の主語とは異なる名の場合(例えば「すべての三角形はAである」という全称命題に対し「二等辺三角形はAである」)であり、その主語を三角形として特定するため、「二等辺三角形( το ισοσκελες, isosceles)は、三角形( τριγωνον, triangle) である」と知る必要があるのである(cf.A24:86a25-27) 。

 全称命題「すべてのBはAである」の知は、特称命題「或るBはAである」の知を含んでおり、その知がそれぞれのBについてAであると知ることを可能にしている。全称性の内実とは、こうしたそれぞれのものに関わる機能であると考えられるのである。

第4節 普遍性の問題

 普遍性は全称性と自体性の連言によって導入される以上(A4:73b26-27) 、それら各々は区別されなければならない。これまでの考察でその区別が理解される。全称性の特性はそれぞれのものに関わっていく機能にあり、それに対し、自体性の特性は定義による意味連関として必然性を保証する点にある。ところで、知識は必然的なことに関わるとされる一方で、普遍性に関わるとされる(A31:87b39-40,A33:88b32,cf.de An.B5:417b22-23,Metaph.M10:1086b33,EN Z6:1140b31) 。この場合も、普遍性は全称性と自体性の連言として、つまり、知識はそれぞれのものすべてに関わり、かつ必然的なことに関わると理解されるであろう。しかし、このとき、(普遍性の含む)全称性が、それぞれのものを知るという潜在していた問題をあらわにするのである。自体性は、この場合にも、知識の対象としての必然性を保証するのであろうか。全称性と自体性の連言によって導入される普遍性の考察とは、まさにこうした問題に関わっている。つまり、それぞれの個別命題は、いかにして必然的と判断され、知識の対象となるのかという問題である。

 以下で考察されるのは、(a) 「二等辺三角形は、二直角に等しい内角をもつ」、(b) 「青銅製の二等辺三角形は、二直角に等しい内角をもつ」といった命題である。これらは「三角形は、二直角に等しい内角をもつ」という自体性命題と対比されよう。この自体性命題を全称化して「すべての三角形は、二直角に等しい内角をもつ」とするとき、(a)(b)は、前節に述べた二種の個別命題(1)(2)に相当すると考えられる。つまり、(a) は主語が全称自体性命題とは異なる個別命題(2) であり、(b) は個物を主語とする個別命題(1) である。ところで、こうした個別命題は、自体性命題とはいえない。自体性命題で自体性表現「それ自体に即して」は正しく「三角形に即して」と理解されるけれども(A4:73b31-32)、個別命題(a)(b)に自体性表現を用いる場合、指示詞「それ自体」は個別命題の主語(二等辺三角形、青銅製の二等辺三角形)を指してしまうからである。しかし、指示詞「それ自体」が指す当のものについて定義が問われるのであり[11]、その定義によって必然性が保証されるのである。個別命題が自体性命題でない以上、必然性の保証は他に求めなければならない。しかし、同時に、それは定義連関という自体性の内実を離れたものであってはならないはずである。

 自体性に代わってその内実を担うのは次の諸概念である。一つは、 (A)「Xとして( η X)」という観点を示すものであり(以下「観点性」と呼ぶ)、この観点性は自体性と同じであるとされる(A4:73b28-29) 。もう一つは、 (B)「任意の( τυχον ) 」と (C)「最先の( πρωτον )」という対である(それぞれ「任意性」「最先性」と呼ぶ)。普遍性は全称性と自体性の連言によって導入された訳だが、この対によって、普遍性は新たに任意性と最先性の連言として再規定されている(A4:73b32-33) [12]。(今後の考察も含め以下に諸概念を整理しておく)


            全称性 ……………………… (B)任意性       普遍性 (73b26-) ← +            + →普遍性(73b32-)
     自体性 …… (A)観点性 …… (C)最先性
               73b28-  74a12      

 

   全称性

 

(B)任意性

 

普遍性
(73b26-)

   

普遍性
(73b32-)

 

自体性 ……

(A)観点性 ……

(C)最先性

 
     


 これらの諸概念(A)(B)(C) が、自体性の内実を担う仕方がまさに問題なのであるが、先ずこれらが個別命題について有効であることを確認しておきたい。 (A)観点性から見れば、観点性表現「Xとして」は自体性表現「それ自体に即して」の場合のような問題を引き起こさない。「二等辺三角形は、三角形として、二直角に等しい内角をもつ」と、自体性命題の主語(三角形)を示すことができるからである。次に、 (B)任意性と (C)最先性の対であるが、そのうち (B)任意性は個別命題から全称性をひきだすための条件である。例えば「この図形(個物でなくてもよい)は二直角に等しい内角をもつ」という場合、それが真であっても、四角形も図形であるであるから任意の図形にいえることではなく、任意性をもたない(cf.A4:73b33-37)。それゆえ、全称性はいえない。しかし、「この二等辺三角形は二直角に等しい内角をもつ」という場合は、任意の二等辺三角形にも成り立つので(cf.A4:73b38) 、全称性が成立する訳である(cf.Universal Generalization) 。さて、こうして「任意の」Xという一般名に対し、対(B)(C)の他方、 (C)最先性は、更に制限を加える。先の事例で、二等辺三角形は確かに任意性を充たすが、最先性を充たさないとされる(A4:73b38-39) 。「二直角に等しい内角をもつこと(以下「2R」)」が任意に成り立つのは、二等辺三角形に限られずより多くの事例についてであるからである(A4:74a3)。そこで、より一般的なことがより先であるならば(cf.A2:72a3-4)、2Rが任意に成り立つ、より先なるものは三角形である(A4:73b39)。そして三角形が、一般性において最先的( καθολου πρωτον )である(A5:74b2,cf.A4:73b39-74a1)[13]。こうした最先的主語が、自体性命題の主語に当たるのである(A4:73b40-74a3,A5:74a36-37,b2-3,cf.A5:74a12-13) 。

第5節 個別命題の必然性

 これらの諸概念のうち、普遍性を主題として継続する考察において(A5)、全称性に応じる (B)任意性はアリストテレスの考察から後退する(cf.A5:74a11,20)。そして、 (A)観点性と (C)最先性が残され、自体性表現( καθ' αυτο )は一切現れない(cf. κατα τουθ', A5:36-37, κατα τουτο, A5:74b2-4)。こうしたことは、まさに (A)観点性と (C)最先性がいかなる仕方で自体性表現に代わりその内実を担うかに考察の焦点があることを示唆する。アリストテレスは、個別命題において (A)観点性と (C)最先性とによって特定される主語が自体性命題の主語に他ならないことを、(A)(C)が、定義連関という自体性の内実に即して主語を特定することから明確にする。(A)(C)は、定義連関という自体性の内実に即して、個別命題における必然性を保証するのである。

 先ず (C)最先性であるが、上述のように、最先性は任意性が充たされた上で(cf.A5:74a10-12)、述語項と外延を等しくするような主語項を要求している(cf.επι πλεον, A4:74a3)。こうした外延的処理は、定義連関という内包的問題と関連しないように思われよう。しかし、こうした外延的処理は定義形成段階において既に重要な役割を果たしていることを指摘しておくべきである(B13:96a24-b14,esp.96a32-34,cf.B17:99a16-37)。ともかく、個別命題に対し最先性を充たす主語項を特定する場合、諸項の定義連関を離れたものではないことが確認される。そのことは、抽象の事例においてより明確に見て取ることができる。最先性は、抽象によって考察されるのである(A5:74a36-38) 。

 例えば、二辺が等しい青銅製の三角形から、「青銅製であること」「二辺が等しいこと」等を抽象(捨象)することで「二直角に等しい内角をもつこと」が最先的に成り立つ場合を調べるのである(74a38-b2)。しかし、こうした抽象の過程は、諸項の或る系列を前提したものであり、無作為な抽象とは区別されなければならない。つまり、先ず、抽象の過程は、任意の順序ではありえず、より一般的またはより個別的といった系列に即した順序であるということである。そしてまた、抽象の対象となった物(二辺が等しい青銅製の三角形)の記述に現れていなかった「図形であること」「境界であること」も抽象の過程で現れていることが注目される(A5:74b1) 。こうした叙述が示すのは、項(三角形)の定義の構成要素(「図形であること」cf.Euc.I,df.19, 第2節に引用)も含めて、諸項の系列を了解しているということである。つまり、抽象は定義連関に即してこそなされている。最先性は、定義連関に即して、個別命題から自体性命題の主語を特定するのである。

 次に (A)観点性についても、項の定義連関を指摘できる。三角形として、二直角に等しい内角をもつとしても、普遍的に知ってはいないとされることがあるが、それは、個々の場合で、三角形の定義が異なっている場合である(A5:74a32,34-35)。ここで普遍性が問われる焦点は、全称性ではなくやはり自体性にある。観点性が個別命題から自体性命題の主語を特定できるのは、「三角形」が単なる名でなく特定の定義をもったものとして機能する場合に限られるのである。

 三角形とは、辺に従って分類した場合、正三角形、二等辺三角形、不等辺三角形で尽くされる(cf.Euc.I,df.20)。しかし、それぞれの三角形について別々に論証したところで、普遍的に「三角形は、二直角に等しい内角をもつ」と知っていることにはならないのである(A4:74a25-30) 。外延的にすべての三角形( παν ... κατ' αριθμον ) であり、知らないものは何もなくとも、形相に即してすべての三角形( κατ' ειδος ... παν ) とはいえないからである(A5:74a30-32)[14]。「形相に即して」とは、論証の前提となる三角形の「定義に、即して」ということだと理解してよかろう(cf.A33:89a18,20) 。アリストテレスは、同様の文脈において、同じ定義、つまり名の非同名同義性を指摘している(A24:85b9-11)[15]。つまり、それぞれの三角形についての論証が、三角形の定義とはそれぞれ別の定義(cf.Euc.I,df.20)を用いる限り、普遍的に知っているとはいえないのである。個々の三角形が「三角形として、二直角に等しい内角をもつ」場合に、観点を定める「三角形」は、同じ定義の三角形である限りで、自体性命題の主語を特定できるのである。

 こうして、個別命題から、「Xが最先的に」「Xとして」という仕方で、最先性や観点性によって、自体性命題と同じ主語Xが特定され、項の定義連関という自体性の内実に即して、個別命題は必然的と判断される。普遍的知識はこのような仕方で個別命題に関わるのであり、個別命題はこのような仕方で必然性を対象とする知識の対象になるのである。確かに、個別命題は論証の結論ではない。しかし、個別命題の知識は、論証を通じた知識という学問構想から、切り捨てられた訳では決してないのである。

 このことは、定義や論証として必然的連関をもつ仕方で原因の連関が定式化された場合(自然法則が確立された場合)、それを通じて、個々の自然事象を知るという場合にも、必然的認識が成立することを示している。自然学者(自然科学者)は、このような仕方で、個々の自然事象を認識しなければならないのである。

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