『自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に関する研究』 (1999)

第4章 原因の探求と定義の定式化

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第1節 定義論の問題                
第2節 存在概念の拡張                
第3節 原因の存在把握                
第4節 存在把握の成立                
第5節 名目的定義                  
第6節 定義の確定


 或る自然事象について四原因を問い、それら諸原因によってその事象の定義が構成される。しかし、それぞれの原因が観察を通じて別々に把握されたところで、それらが統合され一つの定義を構成することにはならない。むしろ、四原因は初めから統合を目指して探求されていなければならない。それが目的因(=形相因)を焦点として、それとの概念的(必然的)連関において始動因と質料因を問う『自然学』におけるアリストテレスの探求のための方法論であった。

 或る事象の目的を捉えることは、その事象についての一般的把握を可能にする。例えば、家をその目的において「家財の保全」を捉えることで、個々の様々な家を一般的に把握することができるのである。目的(機能)から見れば家に他ならないものでも、家を特定の材質や特定の形態のみに頼って捉えるならば、家とは呼べないということになってしまうであろう。自然事象を目的において捉えることはこうした一般的把握を可能にしているのである。そして、その把握を起点とし、目的を必然的に可能にするものとして、始動因と質料因が探求されたのである。しかしながら、自然事象の中には目的と呼べるものが見出せないものもまた存在するのであり[1]、そうした事象をいかにして一般的に把握するかが問われなければならない。

 このことは、『分析論後書』の定義論と呼ばれている箇所において、問われなければならない。原因探求に先立つ事象の把握がそこで問題となっているのである。定義論の研究は、それを焦点として展開しているともいえる。しかし、研究の多くは事象の把握がどのように成立するかを問題としながら、どのような把握であるかは自明としているように見受けられる。しかし、むしろ問われるべきは、事象把握のあり方である。

 先ず、定義論をアリストテレスの学問構想(本論第1章2節)に照らして位置づけ、その概要を確認する(第1節)。そして定義論の基本図式となる「存在把握」から「本質探求」の内実を解明し(第2節)、「存在把握」が「原因の存在把握」にあることを確認する(第3節)。「原因の存在把握」がいかに成立するのかを検討し、それが原因探求に先立つ事象の一般的把握にあることを明らかにする(第4節)。他方で、いわゆる「名目的定義」が存在把握を保証するという解釈を退ける(第5節)。最後に、原因の探求方法は形式的枠組み(論証形式)においてなされるものである点を確認する。そして、確定された定義が事象を知ることに寄与する仕方を指摘する(第6節)。


第1節 定義論の問題

 定義論は、次のように構成されている。『分析論後書』B巻3章冒頭の問題設定に始まり(B3:90a36-37) 、定義をめぐる難問の総覧を経て(B3-7)、8章からアリストテレス自身が改めて考察を始める( παλιν δε σκεπτεον, 93a1-3)。そして、3章での問題設定は10章の終わりで考察されたことが確認され、一応考察を終えるのである(B10:94a14-19)[2]

 定義( ορισμος ) とは、「何であるか」という問いに対する答えを定式化したものである( λογος του τι εστι, B10:93b29) 。しかし、「何であるか」という問いは、名前が「何を意味するか( τι σημαινει ) 」を求める場合と、名前が指す事象のあり方を問う「本質( το τι ην ειναι )」を求める場合がある[3]。定義論で基本的に問題になる定義は、後者、つまり本質の定式化である。

 定義論の中心問題は、定義と論証の関係(B10:94a17-18)、つまり、本質をどのように論証上に項配分するか(B13:96a20) という問題である。その場合、考察の基本的枠組みを形成するのが、事象の本質と事象の原因との同一である(B8:93a4) 。定義は、事象の原因を事象の本質として定式化するものである。他方、論証は、事象の原因を中項として成立する(B12) 。つまり、本質は論証を通じて示されることになり、定義は論証として定式化されるのである。

 さて、こうしたアリストテレスの考察が、『分析論後書』の学問構想の基本に即したものであるを先ず確認しておくべきである。本論第2章1節において、アリストテレスの論証を通じた知識(論証知)という構想を次のように、整理した。

 論証を通じて( δι' αποδειξεως ) 、或る事象を知っている( επιστασθαι )とは、次の条件をみたすことである。
(i')論証を通じて、その事象の原因を認知している( γινωσκειν )
(ii') 論証を通じて、その事象は必然的であると認知している

 定義論においては、本質と原因とが同一とされて、(i')に照応する「論証を通じて、本質は認知される( δηλον ... δι' αποδειξεως, B8:93b17-18) 」ということが主要な結論となるのである((ii') の必然性の認知については、当面保留するけれども、本章最終節で示唆する)。

 また、次の点も論証知の一般的論点に照応する。つまり、すべての事象が論証を通じて知られるのではなく、論証には原理がなければならないという論証知の論点に照応して、定義論において、あらゆる定義が論証によって提示される訳ではなく或る制限をうけるのである。「論証なしでは本質を認知できない」というとき「別の原因があるものについては」と限定が付けられているのはそのためである(B8:93b18-19) 。アリストテレスは次のように事象を分類している(B8:93a5-6) [4]

(1) その事象の存在とその原因が同じもの
(2) その事象の存在とその原因が別のもの

(1)(2)の事象分類に照応して、本質も分類される(B9:93b21-22) 。(1) の事象は中項をもたず、論証の原理として定義(基礎措定)されるもの、例えば数論における「単一( μονας ) 」に照応する(B9:93b22-25,B10:94a9-12)[5]。他方、(2) の事象は中項をもち、その本質は論証を通じて示されるのである(B9:93b22-28) 。つまり、本章で扱う定義論(B3-10) における定義は、論証の原理となる定義とは区別されなければならない。ところで、(2) は、更に、(2-1) その存在が論証可能な場合、(2-2) その存在が論証不能な場合に区分される。(2-2) の場合は除かなければならない訳だが、それは、「主語に対し付帯的に属するもののあること」であると考えられる(B2:90a10-11) 。

 先ず、定義論の中心問題として挙げた点、本質がどのように論証に項配分されるのかという問題を、雷鳴という事象について、予め確認しておきたい[6]

雷鳴とは何であるか( τι εστι βροντη; ) 。雲における火の消去である。何故、雷鳴するか( δια τι βροντα; )。雲において火が消去するということ故である。雲はC、雷鳴はA、火の消去はB〔としよう〕。このとき、Cつまり雲に、B〔火の消去〕が属し(というのはそれ〔雲〕において火は消去する)、それ〔B火の消去〕にAつまり音( ψοφος ) が属す。(B8:93b7-12)

ここでの項を論証式上に配分し、アリストテレスの与えている文を並べれば次の通りである(「雷鳴」という項と「音」という項との関係については後述する)。
           
 

(項配分)


 

(文)

 
   A 雷鳴         ─   B 火の消去
 B 火の消去    ─ C 雲
 ゆえに A 雷鳴 ─  C 雲
 
    音が火の消去に属する
  火の消去が雲に属する
  ゆえに 〔音が雲に属する〕
 

            

本質と原因の同一は、引用に見られるように、「雷鳴は何であるか」「何故雷鳴するか」というそれぞれの答えの同一によって確認される(cf.B10:94a3-5,B2:90a15-23) 。そして、原因(=本質)が、論証式上に中項として提示される訳である。本質が論証の結論となるのではない(B8:93a9-15,93b16-17,cf.B4) 。

 しかしながら、雷鳴の原因を「火の消去」とすることはよいとしても、雷鳴の本質を「火の消去」とすることには抵抗があろう。この点について、「論証を通じて原因を認知する」或いは「論証を通じて本質を認知する」ということを、正確に捉えなければならない。「原因を認知する」とは、テキスト上次のように述べられていたのである。

その事象がそれの故にある原因〔つまり、その事象の原因〕を、その事柄の原因であると認知する( την τ' αιτιαν οιωμεθα γινωσκειν δι' ην το πραγμα εστιν, οτι εκεινου αιτια εστι, A2:71b10-12) 。

 つまり、「論証を通じて」成立するのは、ただ原因の認知というよりも、正確には、原因と事象の連関の認知なのである。雷鳴について「何故雷鳴するか」と問いによって、「火の消去」が原因として与えられる。しかし、「論証を通じて原因を認知する」とは、ただ「火の消去」を認知することではなく、「雷鳴」という事象とその原因「火の消去」の連関を認知することである。本質の場合も同様である。「論証を通じて本質を認知する」とは、本質をただ「火の消去」であると認知することではない。むしろ、本質は「雲での火の消去による音」(B10:94a5)であり、結論「雲での音」と中項「火の消去」の連関を表す論証全体( αποδειξις συνεχης, B10:94a6-7)として与えられる訳である[7]。これが「論証を通じて本質は明らかである(B8:93b17-18) 」ことの内実である。

 ところで、確かに、中項「火の消去」が「雷鳴」の定義だとされたり(B8:93b6-7,12)、或いは先の引用に見られる「雲における火の消去」という仕方で、必ずしも「雲における火の消去による音」という事象と原因の連関全体が示されない場合がある。しかし、その場合、既に了解されていることとして省略されているからである。「何故雷鳴するか」或いは「雷鳴とは何か」という問いにおいては、「雷鳴する(雲で音がする)」ということが既に把握されていなければならないのであり、事象の把握ぬきに原因や本質が与えられることはない。

 こうした把握が、まさに「何故雷鳴するか」或いは「雷鳴とは何か」という探求において必要とされる「雷鳴する(雲で音がする)」という把握の問題である[8]。原因の探求は、個々の事象連関から原因となる事象を探求される訳だが、個々の事象連関から直ちに原因が探求される訳ではない。先ず、原因に対して結果となる事象が把握されていなければならない。それは、定義論において、アリストテレスが自らの見解を述べるに当たって、再確認されたことである( ειποντες παλιν εξ αρχης, B8:93a16)。

    (α1)「事態( το οτι )」成立を把握して(α2)その「原因( το διοτι )」を探求するように──ところで、同時に明らかになることもあるが、ともかく「事態成立」より先にその「原因」を知ることはできない──、同様に(β2)「本質( το τι ην ειναι )」も、(β1)「存在( το οτι εστι ) 」を〔知ら〕なくては〔知りえ〕ないことは明らかである。というのも、存在するかどうか( ει εστιν )を知らずに<何であるか〉[i.e.本質] を知りえないからである。(B8:93a16-20)

ここで再確認されることの意味は次節で明確にしたい。


第2節 存在概念の拡張

 (α1)事態成立を把握して(α2)その原因の探求すること、そして、(β1)存在を把握して(β2)本質の探求すること、その二つの過程が相即することを、「月蝕」の例を用いてテキストを追えば、次のように整理できる(< > は筆者の補いを示す)[9]

 

(α1)事態成立 (το οτι)
SはPだ
月(S) が蝕する (P)
(οτι <η σεληνη> εκλειπει)
(B1:89b27,28,30,B8:93b2)

 

 ──→

 

 

(α2)事態成立の原因 (το διοτι)
何故SはPか
何故月(S) は蝕する(P) か
(διοτι <η σεληνη> εκλειπει)
(B1:89b30,cf.B8:93b2)

 




 

(α2') 事態成立の原因
何故月(S) は蝕する(P) か
(δια τι εκλειπει η σεληνη)
(B2:90a16-17)       

 




 

(β2') 事象存在の原因
何故月蝕(T) はあるか
(δια τι εστιν εκλειψις)
(B2:90a16-17)          

(β1)存在 (ει εστι)
Tがあるということ
月蝕(T) がある
(οτι εστιν εκλειψις)
 
(B8:93b2-3,B2:90a13) 



 ──→




 

(β2)本質 (τι εστιν)
Tは何であるか
月蝕(T) は何であるか
(τι εστιν εκλειψις)
(B2:90a15,cf.B8:93b3)  


 (α1)事態成立を把握して(α2)その原因を探求することという場合に、事態とは、上の例に示されるように、「S(主語)はP(述語)だ」という構造をもつ。それに対し、(β1)存在の把握して(β2)本質の探求することは、もともと、実体(に相当するもの)について問題とされていた。「白である」といった(「ある」の繋辞用法の)場合と区別して、端的に存在するもの(ケンタウロス、人間、神)について問題とされていたのである(B1:89b31-35,cf.B2:89b38,39,90a2,4-5,10,12-13,32) 。つまり、(α1)事態成立を把握して(α2)その原因を探求することは、実体に相当するものについて(β1)存在を把握して(β2)本質を探求することと対比的に導入されていたのである(B1,B2:89b37-90a1)。しかし、ここで月蝕についての用例に示されるように、(β1)存在や(β2)本質が問われているのは、述語「蝕する( εκλειπει )」に由来する「蝕( εκλειψις )」という属性である。ここには、存在概念の拡張が見られる[10]

 しかしながら「蝕が存在する」という場合、属性を単純に実体化した訳では決してない。というのも、(β2)本質と(α2)原因とは一致するのであり、本質や原因の探求に先立って把握される、(β1)蝕の存在と(α1)「月は蝕する」という事態成立とも一致すると考えなければならないからである。(β2)本質とは、(α2)「何故月は蝕するのか」で問われている原因と同じ「月蝕」の本質であり、(β1)存在とは、(α1)「月は蝕する」という事態成立と同じ「月蝕」の存在でなければならない。このことは、存在と本質を問われる「蝕」とは、「蝕する」という属性を単純に「月」という主語から切り離したもの、つまり、日蝕(B1:89b26)の場合もあれば月蝕の場合もあるような「蝕(=光の欠如[11])」という一般的現象ではないことを意味する。「蝕する」という属性を単純に実体化して「蝕が存在する」といっている訳ではない。(α1)「月は蝕する」という事態を、(β1)「月蝕」の存在として定式化しているのである(整理における(α2') と(β2') が端的に示す)[12]

 こうした月蝕(T)について、(β1)存在と(β2)本質が問われる訳である。注意しておきたいのは、この月蝕(T)は論証の中で項として出現するということである。つまり、AはBに属す、BがCに属す、従って、AはCに属すという論証形式において、月蝕はA(大項)の位置を占め、月はC(小項)の位置を占めるのである。このことは、一方で、AはCに属すという論証の結論が、月蝕(T=「月における蝕」)は月に属すという命題になること、つまり、(述語の定義に主語が属する)自体的命題となることである(A4:73a37-b3) 。論証の結論は自体的命題であるという(数学の論証を含む)一般的条件は充たされるのである(A4:73a21-24) 。他方で、より重要であると思われるのは、A(大項)は大前提「AはBに属する」においてC(小項)を離れて出現しなければならないということである。AがCの単なる(「蝕=光の欠如」のような)属性であれば、Cを離れるとき、もはやC固有の属性は考えられない(太陽の属性にもなりうるものである)。しかし、A(大項)が月蝕の場合、それが月という小項Cを離れて出現しても、尚C固有の属性としての身分を保っているのである[13]。論証において、大前提に出現する場合と結論に出現する場合とでは、A(大項)の意味が異なることは厳に禁じられる。月蝕(T)は、意味の同一性をもつ「項」として成立しているのである。

 さて、定義が問われる項の成立はアリストテレスの挙げる他の事例「協和音」や「雷鳴」についてもほぼ同様に考えることができる[14]。そのことを簡単に整理しておきたい。


(α1)(α2 )
事態の成立と原因



 

 

(β1)(β2)
存在と本質

月(S)は蝕する(P)

 


 

月蝕(T)がある

高音と低音(S)は協和する(P)
συμφωνει το οξυ τω βαρει (cf.B2:90a19-20)








 

協和音(T)がある
τι εστι συμφωνια (B2:90a18-19)

高音と低音が協和すること(T)
εστι συμφωνειν το οξυ και το βαρυ (cf.B2:90a21)

雲(S)で音〔がする〕(P)
ψοφος εν νεφεσι (B10:94a7-8,cf.B8:93a22-23,93b11-12)
 






 

雷鳴(T)
βροντη (B8:93a22,93b9,B10:94a8)


第3節 原因の存在把握

 (α) 事態成立を把握してその原因の探求する過程、そして、(β) 存在を把握して本質の探求する過程とが平行する過程であることを確認したが、更に、別の平行する探求の過程が描かれている。一つは、(γ)原因の存在把握から原因の何であるかを探求する過程であり、もう一つは、(ε)中項の存在から中項の何であるかを探求する過程である[15]。(α)(β)を含め、次のように整理される。

 

原因の探求


 
 

(γ1) 原因が何かある
οτι εστι τι <αιτιον> τι τουτ' εστι (B2:90a8-9)



 ──→


 

(γ2-1) 原因は何であるか
τι τουτ' <i.e.αιτιον> εστι (B2:90a9)

中項の探求



 
 

(ε1) 中項があるか
ει εστι μεσον τι εστι το μεσον (B2:90a6,cf.89b38) 



 ──→


 

(ε2) 中項は何であるか
τι εστι το μεσον (B2:90a6,cf.90a1)

(α1)事態の成立
SはPだ
月(S) が蝕する(P)



 ──→

 

(α2)事態成立の原因
何故SはPか
何故月(S) は蝕する(P) か 

(β1)事象の存在
Tがあるということ
月蝕(T) がある



 ──→

 

(β2)事象の本質
Tは何であるか
月蝕(T) は何であるか

 

 (α2)事態成立の原因は(β2)事象の本質と同じであり、これらが、(γ2)事象の「原因は何であるか」と一致することは理解しやすい。そして、原因は論証において中項であるのであるから、(ε2)「中項は何であるか」と一致することも理解できる。しかし、(γ1)事象の「原因の存在」、或いは(ε1)「中項の存在」が、(α1)事態成立および(β1)事象の存在と対応することは、決して理解しやすいものではない。(α1)事態成立や(β1)事象の存在を、知覚によって知られることであると考えるならば、なおさらである。原因(=中項)の存在が把握されることの意味を考え直さなければならない[16]


第4節 存在把握の成立

 アリストテレスは(β1)事象の存在から(β2)事象の本質という探求過程のうちの、(β1)存在把握の仕方に関し次のように述べている。

ところで、我々は(β1)「存在すること」を、(a) 或る場合は付帯的に、(b) 或る場合は「事象自体の何か( τι αυτου του πραγματος )」を把握して、把握する。例えば、雷鳴を雲の或る音( ψοφος τις νεφων ) 〔である〕と、〔月〕蝕を〔月の〕光の或る欠如( στερησις τις φωτος )〔である〕と、人間を或る動物〔である〕と、魂をそれ自身を動かすもの〔である〕と〔把握する〕。
そこで、一方で、我々が(β1)「存在すること」を(a) 付帯的に知る事柄に対して、我々はいかなる仕方でも(β2)本質に向かわないのが必然である。というのは〔その場合〕(β1)「存在すること」を知っていないのであるから。そして、(β1)「存在すること」を知らずに(β2)本質を探求することは、何も探求しないことである。他方で、我々が(b) 〔事象自体の〕何かを把握する限りの事柄については、容易であ
る。したがって、(β1)「存在すること」を我々が把握している仕方に応じて、我々は(β2)本質にも向かうのである。(B8:93a21-29)

ここで、存在把握の二つの仕方が述べられている。つまり、一方で(a) 付帯的な把握の場合、存在を把握しているといえず本質の探求に向かえないこと、他方(b) 「事象自体の何か」或いは「本質の何か( τι του τι εστιν, B8:93a29) 」を把握することで「存在すること」を把握するとき、本質を探求できることが述べられている。存在把握を可能にする (b)「『事象自体の何か』の把握」とはいかなる把握であろうか。

  (b) 「『事柄自体の何か』の把握」とは、「雷鳴を『雲の或る音である』と把握して」以下に続く叙述が、その例に相当するとほぼ一致して正当に解釈されている[17]。つまり、雷鳴の本質は「雲での火の消去による音」であるが、ここでの例「雲の或る音」はその本質の一部となるという点で「事柄自体の何か」となるのである。そして、原因による「火の消去による」という限定に、「雲の或る音」の「或る」という限定が応じている[18]。月蝕の場合の「『事象自体の何か』の把握」に当たる「月の光の或る欠如」についても同様である。月蝕の本質は「地球の遮蔽による月の光の欠如」であるが、原因による「地球の遮蔽による」という限定に、「或る」という限定が応じているのである。

 さて、こうした「或る」という限定については、(β1)事象の存在把握が、(γ1)原因の存在把握、或いは(ε1)中項の存在把握と一致していたことを想起しなければならない。アリストテレスは、「月蝕」を大項A、「月」を小項C、「地球の遮蔽」を中項Bとした上で、「月が蝕しているか否か( προτερον εκλειπει ) 」を探求することは、「中項Bがあるか否か( αρ'εστιν η ου ) 」を探求することだと述べている(B8:93a30-32) 。そこで、「月が蝕している(≡月蝕が存在する)」と把握することは、「中項Bがある」という把握である。しかし、ここで「中項Bがある」という把握は、中項が特定されて「『地球の遮蔽』がある」と把握されることをもちろん意味しない。「月が蝕している(≡月蝕が存在する)」という把握の時点で、中項Bはまだ特定されてはいないのである(cf.B8:93b4-7)。特定されるのは、月蝕の原因や本質が特定される時である。(ε1)中項の存在把握とは、こうした特定されない仕方での中項の把握であり、(γ1)原因の存在把握も、同様に、特定されない仕方での原因の把握なのである。

 こうした特定されない仕方での原因や中項の把握がいかなることであるか。事象の存在を把握しているが本質を把握していないとされる事例を確認したい。(α1)「月が蝕する( οτι εκλειπει, 93b2)」(β1)「月蝕が存在する( οτι εστιν εκλειψις, 93b2-3)」ということが把握されているが、(α2)「何故月が蝕するか」(β2)「月蝕は何であるか」が把握されていない事例として挙げられているのは、次の事例である。つまり、小項を「月」とし、大項を「月蝕」とし、中項を「満月のとき我々との間に何も見えるもの〔例えば雲〕がないのに影を作りえないこと」として、アリストテレスの描く事例である。月蝕の存在をこうして把握した上で、中項(原因)が何であるか、遮蔽か、月の回転か、〔光の〕消滅か、を探求しなければならないとされるのである(B8:93a37-b7) 。

 ところで、中項として示された「満月のとき我々との間に何も見えるもの〔例えば雲〕がないのに、影を作りえない」に含まれる「影を作りえない」とは、「光が欠如している」ことの判別方法を示していると考えられる(cf.de An.B8:419b32-33) 。そこで、「満月のとき我々との間に何も見えるもの〔例えば雲〕がないのに、光が欠如している」と置き換えられる。このようにするとき、「月の光の或る欠如」という月蝕の存在を把握において、月蝕の原因を特定せずに把握することの内実を探ることができる。つまり、「或る」という限定は、「満月のとき我々との間に何も見えるもの〔例えば雲〕がないのに」という了解に支えられているのである。

 このことは、一方で確かに、「或る」という限定を外して、月蝕の存在を「月の光の欠如」として把握することの不十分さを明確にする。月と観察者の間に雲がある場合にも「月の光の欠如」は起こるけれども、その場合、月蝕を観察している訳ではない。観察者は、ともかく、雲がある場合の「月の光の欠如」と、雲がない場合の「月の光の欠如」とは異なることを把握していなければならないであろう[19]

 しかし、重要なのは、事象の存在把握は(γ1)原因の存在把握と同じであり、雲のない場合の「月の光の欠如」を、何か同一の原因による現象であり、その一事例であると把握することである。「或る」という限定は、こうした何か同一の原因が存在するということに支えられているのである。つまり、このことは、月と観察者の間に雲がない「月の光の欠如」を観察している場合、それがたとえ、月蝕と正当に呼びうる現象を観察している場合であっても、直ちに、月蝕の存在を把握していることにならないことを意味する。原因を問うことは、個々の事象の原因を問うことではない。原因は本質と同じであることからも理解されるように、原因は月蝕という一般事象の原因でなければならない。「今、月が蝕している」という知覚だけから、原因の探求は決して始まらないのである。

 確かに、月蝕の原因とされる「地球の遮蔽」は当時知覚できることではなかった。しかし、こうした時代的制約から、先ず事象を一般的に把握し、理論的考察によって原因を探求しなければならないのであり、こうした制約がなければ、原因は知覚から明らかであると考えれるならば、誤りである。アリストテレスは、原因となる「地球の遮蔽」が知覚されるとしても同様に主張するのである。

たとえ月面上にいて地球が〔太陽の光を〕遮蔽するのを見たとしても、月蝕の原因を知らなかったであろう。というのも、今〔月が〕蝕していること( οτι νυν εκλειπει )を知覚するだろうけれども、何故一般に〔蝕する〕か( διοτι ολως )を知覚することはないだろうからである[20]。普遍についての知覚はないのである。しかしながら、それ〔i.e.月蝕〕がしばしば生起することを観察することから、普遍を捕捉して論証〔i.e.原因を与える推論〕をもつであろう。というのも、多くの個々の事例から普遍は明らかになるのである。 (A31:87b39-88a5)

「今、地球が太陽の光を遮っていること」と知覚していても(cf.B2:90a29) 、月蝕の原因は把握されていないとされる。月面上にいる場合、月蝕の原因把握は、月蝕を一般的に把握すること(月蝕の存在の把握)と同時になされる[21]。しかし「存在と原因が同時に明らかになることはあっても、原因が存在より先に認知されることは不可能なのである(B8:93a17-19) 。」つまり、月面上にいる場合、個々の事象(個々の「月の蝕」と「地球の遮蔽」)の一般的な連関を捉えられ、月蝕の存在と月蝕の原因とを同時に把握している。こうした一般的連関がアリストテレスのいう「普遍」である。こうした連関が捉えられて初めて、個々の事象を原因や結果と呼びうるのであり(cf. B12:95a14-16) 、個々の事象が原因や結果として先にある訳ではない。原因が明らかになるのは、原因となるものが知覚されるにせよ知覚されないにせよ、一般現象に対して( διοτι ολως )であり、原因探求を始めるあたり問われる存在把握とは、こうした現象の一般的把握なのである。存在把握は、単に「今、月が蝕している」といった知覚のみで成立することはありえず、原因把握に先立ち一般的な仕方で問われている[22]。その事象を何か同一の原因による現象として把握するとはそのことである。


第5節 名目的定義

 さて、こうした「事象自体の何か」の把握が成立していない場合が、それと対比される事象の付帯的な把握に当たる訳であり、いわゆる「名目的定義(nominal definition)」をもつだけのときは、付帯的把握の一例になると考えられる。しかしながら、「名目的定義」は存在把握を含むといった解釈が近年数多く提示されており[23]、「事象自体の何か」の把握とは「名目的定義」の把握であるとされている。こうした解釈に対して検討を加えておきたい。

 「名目的定義」とは、アリストテレスが「名もしくは他の名的な句(名詞句)が何を意味するかの定式( ο λογος του τι σημαινει το ονομα η λογος ετερος ονοματωδης, B10:93b30-31 ) [24]」として提示したものである。それは、定義の一種として挙げられる訳であるが、アリストテレスの定義分類は解釈の難所の一つとなっている。そして、その点が「名目的定義」についての解釈上の要所でもある。

 解釈の難所とは、定義として4種列挙しておきながら、総括する際には3種しか挙げていない点にある。4種とは (1)「名目的定義」 (2)「一続きの論証( αποδειξις συνεχης ) 」 (3)「論証の結論」 (4)「基礎措定」であり(B10:93b29-94a10) 、3種とは「名目的定義」を除いた(2)(3)(4) である(B10:94a11-14)。 (4)「基礎措定」については解釈の争点に関わらないので省略し、 (2)「一続きの論証」と (3)「論証の結論」について見ておきたい。先の雷鳴の事例を改めて挙げる。

 
 

  音が火の消去に属する

  
 

  火の消去が雲に属する

   「一続きの論証」
 

  ゆえに音が雲に属する

…「論証の結論」  

「一続きの論証」とは、論証全体のことであり、原因を含む定義である。「論証の結論」とは、「雲における音」と例示され、原因を含まない定義のことである。解釈上の争点は、「名目的定義」をどう考えれるかという点である。一方は、総括された3種が正当に定義と呼べるものであり、「名目的定義」は除かれたとする。もう一方は、「名目的定義」は、総括された3種の内に含まれているとし、「論証の結論」のもとに総括されていると解釈する。

 ところで、「論証の結論」とは、その例「雲における音」から見ても、前節で見た「事象自体の何か」に応じると考えられる。「事象自体の何か」とは、存在把握を可能にするものであった。そこで、「名目的定義」が「論証の結論」のもとに総括されているとする解釈者は、「名目的定義」によって存在把握が可能になると考える訳である[25]。整理すれば、次の通りである。

  (1)「名目的定義」                            
  (3)「論証の結論」 (雲における音)                 
    「事象自体の何か」(雲の或る音)……存在把握あり     

 先ず、「論証の結論」が「事象自体の何か」に応じることは支持できる。「事象自体の何か」の事例として、正確には「雲の或る音」とされていた訳であるが、既に見たように、「或る」という限定は、中項(=原因)を特定しない仕方での示していると考えられる。つまり、いわば中項の位置を不定とする次のような論証式を想定できるであろう。

     音が X  に属する
     X   が雲に属する
     ゆえに 音が雲に属する

こうした意味で、「事象自体の何か」は単なる命題ではなく、論証構造を示唆し、その「論証の結論」に応じているのである。

 しかし、「名目的定義」が、「論証の結論」のもとに総括され、「事象自体の何か」に応じるという解釈は支持できるものではない。確かに或る仕方では、雷鳴に対して「雲における音」という仕方で与えられる「論証の結論」が、「名目的定義」に由来すると考えてもよい。「雲における音」は、雷鳴という事象について我々が基本的に理解していることに即した言い換えと考えられよう[26]。そして、そうした言い換えによって、「雷鳴が存在するか」という問いが、「雲で音がするか」と二項に分節され明確になる。また、「何故」という問いを立てる場合も、「何故、雲で音がするか」という問いを立てることができる。しかし、「名目的定義」が関わると考えてよいのは、こうした言い換えだけである。「名目的定義」は、「雲で音がするか」といった問いを立てることに有効であっても、「雲で音がする」という把握を保証するものではない。「名目的定義」が示すのは「意味」であって「存在」ではないからである。

 「名目的定義」の例として、「雷鳴」という名について「雲での音」と考えるのはあくまで想定であって、テキストに明示されている訳ではない。「名目的定義」の基本的性質は、当然その例として実際に挙げられる「三角形」によって明らかにされなければならない(B10:93b31-32)。さて、「三角形」について、「何であるか(≡何を意味するか)」は容認( λαμβανειν ) されるが、類の基礎措定と異なり「存在( οτι εστι )」は容認されていないということが既に述べられている(A1:71a14-16,A10:76a32-36)。そして、その存在は証明( δεικνυναι ) されなければならないと述べられている(A10:76a32-36,B7:92b15-17)。そして、まさにそのことが、「名目的定義」の要点として「意味しはするが〔「存在」を〕証明しない( σημαινει μεν, δεικνυσι δ' ου, B10:93b39-94a1) [27]」と述べられるのである。つまり「名目的定義」は「何であるか」の定式である限りにおいて定義の一つに挙げられるけれども(B10:93b29-32)、その「何であるか」は「意味されること」「理解されること( ξυνιεναι, A1:71a13,A10:76b37) 」としてなのである。

 アリストテレスは、こうした三角形の定義についての了解を、定義論での問題と重ねて述べる。つまり、「Tが存在すること」から「何故Tが存在するか」の探求過程を挙げ、「存在することを知らないのであれば、そのものをこのように〔原因を知る仕方で〕把握することは難しい( χαλεπον δ'ουτως εστι λαβειν α μη ισμεν οτι εστιν )」と述べるのである[28]。ここで意図されるのは、「名目的定義」だけでは「Tが存在すること」の把握は成立しないということである。つまり、「Tが存在する」を「SはPだ」と言い換えることに「名目的定義」が貢献するとしても、そうした言い換えによって「Tが存在する」とその問いに肯定するにはならないのである。「名目的定義」の把握は、「Tが存在する」ことの把握が成立する「『事象自体の何か』の把握」に対し、むしろ付帯的把握に留まるのである(B10:93b34-35,B8:93a21) 。


第6節 定義の確定

 原因探求に先立つ存在把握がいかなることであるかを考察してきた訳であるが、存在把握とは、何か同一の原因による事象であるという一般的把握であることを明らかにした。それは論証という枠組みにおいては、中項が存在するという把握である。原因となることが知覚される場合、存在把握は原因把握と同時であるけれども、知覚されない場合、先ずこうした存在把握が必要である。その上で、原因は、無中項な連関をなす中項を探求するという仕方で(B8:93a35-36) 、理論的(概念的)に探求されるのである。そして原因が特定されたとき、それは論証全体(一続きの論証)で示される事象の定義となる(B10:94a6-7)。「本質〔=原因〕を認知するのは論証なしにはありえない(B8:93b18)」のである。これは、一方では、原因の探求が中項の探求として論証の項連関においてなされることを述べている。しかし他方、確定された論証(定義)を通じて、自然事象の原因を認知することでもある。

 ところで、知るということが成立するのは、原因の認知と必然性の認知をともに必要とするのであり(本章第1節)、原因の認知において常に必然性が問われなければならない。それは、こうした事象の論証を自然法則として理解すれば、次のことを意味する。論証全体を自然法則としてそれ自体見れば、必然的な事柄として成立しているのである[29]。そして、こうした自然法則を把握していることにより、個々の事象の「存在したこと、存在すること、存在するであろうこと」を認知するのである(cf.B12:95a14-16) 。しかし、自然事象は必然的でない。それは一定の仕方の恒常的事象ではあるが、例外を含むの事象である。アリストテレスは、3種の定義(本章第5節)を挙げ、定義論の結論を予見する箇所で、月蝕の例を用いて、恒常的事象( τα πολλακις γινομενα )の論証と知識について、次のように述べている。

    恒常的事象についての論証や知識は、例えば、月の蝕について〔の論証や知識〕は、明らかに、〔恒常的事象が〕このようなもの〔i.e.定義で規定されるもの〕である限りで( η μεν τοιουδ' εισιν )、〔論証や知識は〕常にあるけれども、そうでない〔i.e.恒常的事象が定義で規定されるものではない〕限りでは、〔論証や知識は〕常になく、個別的である[30]。(A8:75b33-35)

つまり、恒常的現象は、定義の規定する特性において捉える限り、それについて知識の成立するのである。この意味が次章で解明されるべき課題である。

目次   次章

 


  

 

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