『自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に関する研究』 (1999)

第3章 アリストテレスの目的論的自然学の擁護

HOME

contents, preface

ch.1
ch.2
ch.3 [← 脚注フレーム表示]
ch.4
ch.5
notes

bibliography

 



第1節 目的論的自然学への現代的評価
  第1項 近代科学の目的論の否認
  第2項 現代生物学の合目的性理解
  第3項 アリストテレスの目的論の構図
第2節 自然学と第一動者
  第1項 目的論的自然学の拡張解釈
  第2項 自然学における第一動者の位置
第3節 自然と技術の類比
  第1項 二つの目的論──行為と機能
  第2項 一つの目的論──始動因と目的因の一致
  第3項 方法論的モデルとしての技術


 前章で、アリストテレスの自然学における方法論を見た。それは目的論的自然学として正当に評価されるべきであろう。しかしながら、まさに目的論的である点において、批判され近代以降の自然科学の伝統とは峻別されている。本章では、その主要な批判を検討し偏見や誤解に基づく批判であることを明らかにしたい。

 先ず、現代、アリストテレスの目的論が一般にどのように理解され批判されているかを見る。そして、現在の生物学が目的論なしにいかに生物の合目的性を説明するかを概観し、それがアリストテレスの目的論的自然学と対立するどころかむしろ照応しうることを指摘する(第1節)。次に、主な批判の論点 (1)アリストテレスの目的論的自然学での自然界の創造者の前提、(2) アリストテレスの技術(行為)と自然の類比による目的論的自然学というそれぞれの点について、テキストに即して検討し批判を退ける。(1) については、近年の解釈に基づいて自然界の創造者がどのようにテキストから解釈されるかを概観し、そうした創造者が自然学において前提されていないことを方法論(四原因の探求)から検討する(第2節)。(2) については、アリストテレスの技術と自然の類比において、技術が方法論的モデル(解説モデル・発見モデル)として限定されていることを明らかにすることで、批判を退ける(第3節)。

第1節 目的論的自然学への現代的評価

 第1項 近代科学の目的論の否認

 分子生物学者モノーの次のような叙述は、アリストテレス自然学に対する現代の大方の見方を代表するであろう。

     科学的方法は、<自然>は客観性をもっているという当然の仮定の上に置かれている。つまり、ある現象を最終原因すなわち≪目的≫の面から解釈することで≪真実の≫認識に到達できるという考えを、否定しようという体系なのである。この原理が発見された日時は、正確に述べることができる。ガリレイおよびデカルトによって定式化された慣性の法則は、たんに力学の基礎となったばかりか、アリストテレスの自然学および宇宙学を廃棄することで、近代科学の認識論の基礎をきずくことともなったのである。たしかに、デカルト以前の学者たちが、理性や論理あるいは実験を無視したわけでもなく、またこれらを組織立てて突き合わせる考えかたをしなかったわけではない。しかし、今日われわれが理解しているような意味での科学は、たんにこれらだけを基礎にして構成できるものではなかった[1]


モノーは、近代以前の自然学も方法論上整備されていたことを認めている。しかし、それでは不十分であることを指摘する。近代科学は機械論的(力学的)自然観に立脚し客観的であるが、アリストテレスは目的論的自然観に立脚するものであることを指摘し、明らかに、目的論は「客観性」をもたないと主張しようとしている。モノーが目的論をこのように考えるのは、目的論が自然に意図を投影するような(projective)理論であり、客観的(objective) でないと理解するからである[2]。つまり、目的論は、人が製造する人工物と同様に自然事象を扱う理論であると理解されているのである。

 アリストテレスの自然学は、目的論的である点において批判され放擲されている。もちろん、アリストテレスの自然学を目的論的と特徴づけることは正当である。しかし、その目的論の理解の仕方が問題である。アリストテレスの自然学を今日なお積極的に評価するためには、モノーの理解に見られるような目的論の理解は不当であることを示さなければならない。アリストテレスの目的論は、彼の方法論上の考察から当然理解しうるものであり、今日それを検討する意義は失われていない。

 

 第2項 現代生物学の合目的性理解

 モノーは、目的論を否認するが、生物の特性として合目的性を認めている。つまり、合目的性を近代科学以降の枠組みの中で処理でき、その処理は目的論とは区別されると考えている訳である。彼が合目的性をどのように処理しているかを見ることにしたい。その場合、彼がどのような問題に取り組んでおり、いかなる意味で目的論を否認するのかに注意すべきである。

 彼は、生物の特性として、(a) 合目的性、(b) 自律的形態発生、(c) 複製の不変性の三つを挙げる(13-14) [3]。このうち、(b) 自律的形態発生は、人工物と対比される特性である。人工物は、自律的ではなく、外部からの力によるのである(9-11)。ところで、この (b)(自律的)形態発生とは機構の問題であり、それを通じて他の特性、つまり(a) 合目的性、(c) 複製の不変性が実現する(17-18) 。そして、(a) 合目的性の処理が問題となる(22-24) 。

 彼は、(a) 合目的性と(c) 複製の不変性との何れが因果的時間的に先行するかという問いを立てる。彼が一貫して反対するのは、合目的性を先行させる説である。つまり「まず初めに合目的原理を考え、それによって、複製の不変性が安全に守られ、個体発生が導かれ、進化が方向づけらている(27)」とする説である。こうした説として、生気説、物活説(アニミズム)を区別するが、モノーの想定している目的論とはこうした立場である。

 他方、彼が支持するのは、複製の不変性が合目的性に先行し、合目的性は不変性から派生する特性だとする説であり、ダーウィンに由来する淘汰理論である。「合目的性を有する構造が出現し、進化し、しだいに合目的性の強いものに洗練されていくのは、すでに不変性という特性を所有している構造…のなかに偶然に生じる擾乱によるものだ…(25)」という訳である(25-26) 。

 モノーが支持する理論の内実は、その詳細に立ち入らなければ、専門家でなくとも十分に理解しうるものである。「DNAのなかのヌクレオチドの配列という形で書かれたテキストが、それぞれの細胞増殖のさいに不変のまま複製されることによって、種の不変性が保証されている(121) 」のであるが、「生物の複製機構もまた〔物理学の不確定性原理が教えるように〕、いっさいの擾乱と偶発事から免れるわけにはいかない。これらの擾乱のうち少なくとも一つは、DNA中のヌクレオチド配列のあるものが個々に変化するためである。……この変化は偶発的なものであり、無方向的なものである。そして、その変化が遺伝のテキストの変化を起こしうる唯一の原因であり、このテキストが生物の遺伝情報の唯一の貯蔵物なのであるから、その結果必然的に、生物圏におけるすべての新奇なもの、すべての創造の源はただ偶然だけにあるということになる。(130-131, 強調引用者) 」

 ここで注意すべきことは、モノーが偶然的擾乱によって起こるタンパク質の構造の変化によって、特定の合目的性(特定の機能)が生じると考えているのではないという点である。合目的性の変容(機能の変化)とタンパク質の構造の変化との関係を、モノーは「本質的な意味での偶然」だという。「…遺伝のメッセージの複製に間違いをひきおこしたり、またそれを可能にしたりするような出来事と、その間違いの機能的諸結果とのあいだには、…なんらまったく関係がない(133) 」のである。モノーは、この場合、次のような事例を類例として挙げる。一方で医者が患者の往診に行っており、他方で職人がその患者の隣の家の屋根を修理している。ところが、職人がうっかり金槌を落とし、通りかかった医者に当たって医者が死亡するという事例である(133) [4]。こうした「本質的な偶然」は、「たがいに完全に独立している二本の因果の鎖が交差することで生じる(133) 」のであり、同様に、合目的性の変容とタンパク質の構造の変化との関係も、こうした意味で「本質的に偶然」なのである。

 先に引用したように、「合目的性は不変性から派生する特性である」であり、「合目的性の強いものに洗練されていくのは、すでに不変性という特性を所有している構造……のなかに偶然に生じる擾乱による(強調引用者)[5]」のである。つまり、「非生物系、すなわち複製をしない系では、〔擾乱によって〕いっさいの構造がすこしずつ崩壊していくが、同じ擾乱とか≪雑音≫が〔複製機構をもつ〕生物圏においては進化を生むものに(136) 」なる[6]。合目的性にとって重要なのは不変性を保持する複製機構なのである。

 

 第3項 アリストテレスの目的論の構図

 さて、目的論への批判がどんな問題場面でどのように生じているかを明確にすることができた。モノーによれば、目的論は、合目的性を先行させて不変性を説明しようとする。そして、その際に、意図、計画といった主観性を自然事象の中に投影しているという訳である。それに対し「不変性を唯一の根本的特性とみなし、合目的性を不変性から派生する第二次的特性(26)」とするべきだというのである。

 ここで指摘しなければならないのは、モノーが、進化という問題を含めて考察しており、複製機構が変化する可能性を考慮していることである。この点にアリストテレスの目的論的自然学との基本的な相違がある。特定の複製機構が確定しているならば、合目的性と不変性は、共にその複製機構から導かれることである。その場合、意図が入りこむ余地もなければ、代わりに偶然を問題にする必要もない。複製機構の変化や生成を想定する場合に、そうしたものが必要となるのである。ところで、アリストテレスの目的論的自然学の構想とは、前章で見たように、目的(=形相)を前提し、その実現を可能にする始動因と質料因を考察することである。そして、形相は、それ自体運動変化しないが他を運動変化されるもの(第一動者と並ぶ不動の動者)なのであり、自然学の対象になるものではない( ου φυσικη, B7:198a35-b3)。形相が自然学で問題となるのは、始動因や質料因の探求のために、確定されたものとして前提されることに留まるであろう。例えば、「成人に成長する」ということが問題なのであれば、それを可能にする始動因(種子)や質料因(組成)は探求されるが、この場合、人間という特定の「種」は前提されているのである。アリストテレスにとって「種」は永続的であり、その生成変化は想定されない。それを語ることは、神話(cosmogony) であるか、少なくとも自然学の領域を超えることなのである。

 こうした相違を踏まえてモノーの立場を見れば、アリストテレスと対立するどころか、むしろ親近的でさえある。アリストテレスの形相をあえてDNAとして理解するならば[7]、その探求の構図は現代人にも十分了解可能なものである。アリストテレスの構図は、成人である親(始動因)のもつDNA(形相因)は子供に授与され、DNA(形相因)を授与されたもの(質料因)が成人(目的因)に成長するということである[8]。そして、このことは恒常的(不変的)現象であり、始動因は何らかの妨害がなければ常に目的を実現する。「何らかの妨害」とは質料因の阻害による現象(奇形)である。

 ところで、エンペドクレスの場合、種子を想定せず、もっばらモノーのいう「偶然による擾乱」から合目的性が現れると考えている。確かに現れうることは認められけれども、偶然によって特定の合目的性が恒常的に成立する訳ではない。「偶然による」説明は、本来の始動因に付帯していた限りで可能になったのである(B8:199b18-26,前章の分析では (V2)) 。アリストテレスの論点は、モノーの「偶然による擾乱」からの合目的性の生成を「本質的偶然」だという点と照応する。

 もとより、モノーの目的論への批判は歴史的にみればもっともなことであり、アリストテレスの目的論も意図や計画を自然事象に投影するものとして解釈されてきた。アリストテレスを現代に呼び戻す前に、まずテキストからそうした解釈を排しておかなければならない。一つは、目的論において、自然事象に創造者の意図や計画を想定する解釈である(2節)[9]。そして、もう一つは、そうした解釈を支えることにもなるが、アリストテレスが無批判に行為についての目的論と自然事象についての目的論とを類比させているという問題である(3節)[10]

 

第2節 自然学と第一動者

 第1項 目的論的自然学の拡張解釈

 自然事象に創造者の意図や計画を想定する解釈は、降雨現象の扱いをテキスト上の典拠としている。必然論者(エンペドクレス)は降雨現象について目的論を認めていない。それに対し、アリストテレスは降雨現象について目的論を認めていると解釈するのである。こうした解釈は、新プラトン派の註釈以来の伝統があり、今日でも尚有力な支持者をえている[11]。そして、テキストに「神の摂理」と呼ばれうる問題が見出されてきた[12]

 私はこうした解釈を支持できないと考える。しかし、既に第2章においてテキスト上の論拠は示しているので、テキストの解釈問題は最小限にとどめ、ここではむしろ、自然学の方法論上の問題として、こうした解釈を検討したい。その場合、端的にいえば第一動者の自然学における位置が焦点となる。第一動者を当のテキストから慎重に取り出そうとするセドリーの解釈を検討することにしたい(以下、セドリー論文の頁付は本文中に指示する)[13]

 セドリーが降雨事例について目的論を読み取る論拠は、先行するファーレイの解釈と同様、次の通りである。

(1) 自然によることは恒常的であるが、偶然によることは非恒常的である。
(2) 冬(雨期)の雨は恒常的であり、夏(乾期)の雨は非恒常的である。
(3) (a) 偶然によることか、(b) 或る目的のためであるか

 さて、冬の雨は(2) より恒常的であり、それゆえ(1) より偶然によるのではない。従って、(3) より、「冬の雨は或る目的の為である」と結論される訳である[14]

 (1)(2)は領域限定をもたず一般的な主張であり、必然論者もまた認めることであるという。この点は正当である[15]。しかしながら、(3) も領域限定をもたないと解釈する場合、セドリー自身指摘するように、必然論者が認める見込みのない主張となる。しかし、セドリーは(3) が網羅的な二分割であり、(a)(b)の他に、(c) 恒常的であり或る目的の為でない(つまり、物理的必然による)といった必然論者への抜け道は残されていないとするのである(p.183) 。

 私は、アリストテレスの議論の性格を論駁であると見定め、そうである以上、必然論者が承認する限りでのみ有効な議論であるとし、(3) の選言は必然論者が認める領域でのみ有効であるとした。つまり、必然論者自身が「偶然」を導入し、「思われ」という仕方で(3) の選言をたてるのは、生体の部分という領域においてであった。そうした領域限定があるのであれば、自然による恒常的な事象であることから、直ちに或る目的の為であると推論することはできない。生体の部分という(3) の選言の領域の外で、つまり降雨現象について、必然論者は、(c) 「物理的必然による」場合があると主張できるからである。

 こうした解釈から、セドリーの解釈は決して支持できるものではない。しかし、今そのことはこれ以上問わず、「冬の雨が或る目的の為に降る」ということを議論の前提として認め、セドリーの解釈の展開を見たい。彼は、「冬の雨が或る目的の為に降る」という場合、その目的とは何であるのかを問い、二つの可能性を挙げている。一つは「元素的目的論」と呼ぶものである。降雨現象を、四元がそれぞれ固有の場所に戻るということとして[16]、或いは、降雨現象を、恒天の永遠運動、究極的には神を真似る月下の運動として考えるのである。しかしながら、彼は、「冬の雨は或る目的の為に降る」ということを引き出した同じ箇所で、「夏の雨は或る目的の為に降るのではない」と解釈できるとする[17]。ところで、夏の雨も「元素的目的論」の枠内にはいるとすれば、「元素的目的論」では冬の雨の目的を定めるのに十分ではないことになる。そこで、セドリーは、「元素的目的論」をなお認めながらも、降雨の季節を問題にできるもう一つの目的の可能性を挙げる。それが、必然論者が降雨の事例について目的論を否定したときに現れた「穀物の成育」である。冬の雨は、穀物の成育の為に降るのである。

 冬の雨が穀物の成育の為であるとするならば、それはどういう含意をもつであろうか。冬の雨は、穀物を成育させる農業の為に(農業に有益であるように)降っているのであろうか。むしろ、農業は冬の雨に順応しているだけではないのか。しかし、セドリーが問題にするのは、一方が他方にもつ関係ではなく、むしろ相互の調和である。そして、人間とその地域の環境との調和ある関係は、永遠的自然秩序の内属的特徴であるという(pp.186-187)。

 ところで、農業は穀物を成育し、人間の摂取する栄養を提供している。つまり、農業の目的は人間の栄養摂取であり、また、穀物は人間の栄養摂取の為に成育されるということになる。セドリーは、こうした人間中心の目的論を読みとるのである。但し、自然における個々のもの(例えば、雨、穀物、家畜としての豚)を取り上げる場合、それら個々の目的が人間への有益さであるのではない。自然の生態系全体の本性(目的)が、人間中心的な自然の階層によって表される本性であるとするのである(p.192) 。つまり、「人間への有益さ」が、例えば自然破壊を促すものという意味ではなく、むしろ自然界の調和を支える意味での目的だとされているのである。セドリーは、アリストテレスの二種の目的の区別( το ου ενεκα τινος, τινι, Metaph.Λ7:1072b2-3,cf.de An.B4:415b2-3,20-21) を、願望の対象としての第一動者と、人間にとっての利益という仕方で位置づけた上で、人間の益として調和された自然観を提示するのである。そして、アリストテレスの自然目的論に、自然界の全ての構成物がそうした意味での「人間の益」の為に存在し機能するというストア的自然観との同型性を見ているのである(p.180) [18]

 セドリーは、このようにして、冬の雨の目的論的解釈から、第一動者の問題が取り出したのである。そして、自然学において神学が前提されているとする(p.196) 。確かに目的論は、歴史的にこうした含意のもとに理解されてきたことは否定できない。しかし、本論で、アリストテレスがその哲学体系においてこうした目的論を問題としているか否かについて検討しようという訳ではない。本論は、アリストテレスの自然学の方法論を考察しているのであり、第一動者が与えるセドリーのいうような意味での目的を、自然学が前提するかということである。

 

 第2項 自然学における第一動者の位置

 アリストテレスは、自然学の対象となるのは、自らのうちに動の始源をもち、「動きつつ動かすもの( κινουν κινουμενον ) 」であり、そうでないものは自然学の対象とはならない( ουκετι φυσικης )と述べられる(B7:198a28,cf.198a36) 。しかし他方、自然事象の原因を探求し知ることは自然学の問題である。ところで、自然事象を動かすものは、すべて「動きつつ動かすもの」である訳ではない( Γ1:201a) 。自然事象を動かしている始源(cf.αι αρχαι αι κινουσαι φυσικως, B7:198a36) には二種類あることが指摘されるが、その一方は、「動かず動かすもの(不動の動者)」なのである。この場合、「動かず動かすもの」として、(a) 第一動者と考えられるもの( το τε παντελως ακινητον και το παντων πρωτον )とともに(b) 形相因・目的因が挙げられている。自然事象の始源の一つである「動かず動かすもの」が、原因である限り知られなければならないにも関わらず、自然学の対象ではないとされる意味が探られなければならない。

 ところで、「動かず動かすもの」のうち、(b) 形相因・目的因を自然学が知らねばならないことは、既に表明されている。つまり、自然学は四原因をすべて探求し知らねばならないのである(B7:198a22) 。ところで、四原因の探求方式とは目的因Tを焦点として次のようなに定式化されていた(B7:198b5-9)。

  始動因  何からTが必然的に生成するか
  質料因 Tが生成するとするなら、何が必要であるか
  形相因 Tが本質であった
  目的因  何故Tがより善いか(端的にでなく、各々のウーシアに対して)
( διοτι βελτιον ουτως ─ ουχ απλως, αλλα το προς την εκαστου ουσιαν )

 その目的因の探求方式において、「端的にでなく、各々のウーシアに対して」という限定がつけられている点に注意されるべきである。この場合、「各々のウーシア」とは、それぞれの個体或いは「種」が存在(生存)することであろう[19]。目的因は何らかの善であるが、こうした限定のもとでのみ考えられることであり、「種」(或いは個体)の生存維持を超えて探求されることではない。

 ところで、こうした目的因の探求方式が実質的に有効であるのは、生体の部分(器官)の目的因(機能)についてに限られよう。それは、「種」の生存への「特定の仕方での有益性」として探求される。しかし、生体全体あるいは「種」の目的因は、「種」それ自体の生存と考えなければならない。こうした「種」の目的因(=形相因)は、探求されることというよりも、その「種」に関わるあらゆる探求において前提されることである。つまり、探求方式に示されるように、始動因と質料因の探求において、目的因T(=形相因)は前提されなければならず、始動因や質料因の探求において既に知られていなければならないのである。

 こうした目的因(=形相因)の位置づけは、論証知の原理と比較できよう。論証が成立するために原理が必要であるが、原理自体はもちろん論証されるものではない訳である。この場合、原理は論証とは別の仕方で知られなければならない。

 さて、動かす動かすものの一方、形相因(=目的因)について、原因として知らねばならないが、自然学の対象ではないことは、こうした論証の原理と類比的な意味で理解したい。

 他方、第一動者についてである。もし、第一動者の問題が、先の形相因(=目的因)とは別の仕方で、つまり、セドリーのように、「種」を超える仕方で設定されるとするならば、自然学の対象でもないし、形相因(=目的因)のように自然学の探求において前提されることでもなかろう。目的因は「種」にとっての有益性として設定されていた訳だが、その意味は、始動因はそうしたものにのみ関わるからであろう。つまり、始動因はその目的因の実現を可能にするものとして探求される訳であるが、そうした探求方式がそもそも保証されるのは、始動因と目的因(=形相因)とが「種」として同一( τω ειδει ταυτο )であるという概念的枠組みがあるからである。始動因は、「種」の特定の形態(形相)に向けて働く能力(cf. προς τινα ορον και τελος δυνατα ην ελθειν, B8:199b6)をもつ始動因として探求され、種子( το σπερμα ) として特定されるのである(B8:199b5-9,cf.B4:196a31-33,PA A1:640a19-23,641b25-30)。目的因が「種」を超えて想定されるとすれば、もはや始動因が実現することは不可能であろう。始動因の探求がなされえないことが、自然学の探求において前提されることはないのである。

 第一動者は「種」という限定の中であっても問題になる。しかし、その場合、第一動者の問題は、形相因(=目的因)の問題と別の問題ではなかろう。「人間が人間を生む」という事例によって例示されるように、始動因と目的因(=形相因)とは「種」として同一である。この「種」としての同一性は、自然学の対象である「動きつつ動かすもの」について述べられていることである(B7:198a24-29)。「種」としての同一性は、先に指摘したように、始動因が目的因を実現するものとして探求されることに概念的枠組みを与える。しかし、他方では、成長した人間が、順次新世代の人間を生むということであり、種の永続性の問題へと連なる。そして、神(≒第一動者)への指示を含む問題となる。「…神は生成を連続的にすることで、宇宙全体を完結させたのである( συνεπληρωσε το ολον ο θεος, ενδεληχη ποιησας την γενεσιν, GC B10:336b31-32,cf.de An.B4:415a28-b2,GA B1:731b31-35) 。」こうした意味で、自然事象は、第一動者に依存しているのであろう(cf.Metaph. Λ7:1072b13-14) [20]。しかし、この場合、自然事象自体は、内在する始動因によって個々の「種」を実現しているのであり、「種」を超えることを目指している訳ではないのである。

 それゆえ、セドリーのように、「種」の限定を外して目的因を設定し、「種」を超えた全体の調和といった問題として神学(第一動者)が自然学において前提されている(p.196) と見るのは正当ではないというべきである。アリストテレスの目的論的自然学は、既に「種」として与えられた形相因(=目的因)から始まるのである。また、神の意図や計画が目的因として設定される訳ではないのである。

 

第3節 自然と技術の類比

 第1項 二つの目的論──行為と機能

 第2章第4節で見たように、目的論的自然始動説(つまり、自然が或る目的の為に働く始動因であること)を論述する一連の議論の中には、自然と技術の類比を論拠とする議論があった。自然と技術の類比について、想定される批判に対してアリストテレスを擁護し、その方法論的な要点を明らかにしたい。

 今日でも、自然による生成(生命現象に限定する[21])についても、技術による生成(製作)についても、それぞれの生成過程に目的論的連関を見出し、それぞれについて目的論的説明が可能であると認められている。自然と技術の類比が批判の対象となるのは、そうした説明を認めるとしても、その説明の仕方(目的論的連関のあり方)は異なるのであり、類比されるべきではないと考えられるからである。

 先ず、技術によって何かを生成(製作)する過程であるが、これは、実際には技術者が何かを製作する過程である。そこで、技術による生成は、技術者の行為と捉えられることによって、行為の一般的文脈において理解されることになる。つまり、それぞれの技術者は特定の目的を指向(欲求)しており、その目的にとって特定の手段が適当だと考えること(信念)によって、行為するといった理解がなされるのである。こうして目的論的連関の形成において欲求や信念等の心的過程が介在することに一つの特徴が見出されるのである。今日多くの場合、技術による目的論的連関は、こうした意味で理解されている。

 他方、自然による生成について、その目的論的連関は、生物の生成過程において典型に見出すことができる。アリストテレスの用いる例もそうした生物(或いはその器官)である。確かに、生物について、今日一種の目的論的説明がなされてはいる。しかし、それは先の行為論文脈とは区別され、機能的な説明である。例えば、或る器官は特定の機能をもち、その機能は生体全体の維持という目的に貢献していると説明されるのである。

 このように、自然と技術のそれぞれの場合において、今日でもそれぞれ或る種の目的論的連関が認められるけれども、それらの説明や理解の仕方は異なっている。自然と技術のそれぞれの場合は、行為論的説明と機能的説明として理解され、それらの説明は、端的に言って、信念や欲求といった心的過程の介在の有無によって区別されるのである[22]

 こうした区別のもとで、自然と技術の類比は批判されることになるのである。一方で、心的過程が介在する目的論を主張するのであれば、生物器官の生成に対し、更には他の自然現象に対し、技術者に相当する外からの制御者を想定していると批判される[23]。他方、心的過程が介在しない目的論を主張するのであれば、人間の行為を生物器官の生成と同等のものと捉え、人の行為をいわば自然主義的に捉えていると批判される訳である。このような仕方で、自然と技術の形成する目的論連関についての今日的な区別を前提した場合、アリストテレス哲学の基本的問題に関わる仕方で疑念が生じざるをえないのである。アリストテレスは、こうした区別を知らない訳ではない。しかし、類比は可能であると考えているのである。今日的な二つの目的論の捉え方に対し、アリストテレスがどのような仕方で一つの目的論を捉えているかを先ず明らかにすべきである。

 

第2項 一つの目的論──始動因と目的因の一致

 一つの目的論は、アリストテレスが自然と技術をいわば相互に類比して、「自然による過程のように技術の過程もあり、技術の過程のように自然による過程もある」と指摘した論点において見出すことができる(B8:199a8-20) 。それは、第2章第4節の区分では、(U1)に当たる。そこの箇所で、アリストテレスは目的論的自然始動因説の積極的主張を始め、目的論的連関の基本的性質を定めたのである。自然によって生成するものの場合も、技術によって生成する(製作される)ものの場合も、或る目的がある場合に、先行する一連の過程がその目的の為に生成しているとされる。つまり、生成の始点から終点に到る一連の過程はすべて、特定の目的の為に生じているのである[24]。ここにアリストテレスの目的論的連関の基本的理解がある。

 ところで、こうした連関を形成する生成がそもそも可能であるのは、自然と技術とがともにそうした一連の過程を始点から終点に到るまで導く始動因であるからである。始動因であることにおいて、重要なのは始動因がいわば概念的に目的と連関していることであり、アリストテレスが三原因の一致ということで問題にしたことである(B7:198a24-26,cf.de An.B4:415b8-12,PA A1:641a27,Metaph.Z7:1032a24-25,Z8:1033b29-32) 。

 自然による生成における三原因の一致は、「人間は人間を生む」というアリストテレスの常套事例によって示される(B7:198a26-27)。人間は生まれて成人(目的因)に成長する訳であるが、そうした一連の成長過程を導くのは成人(始動因)が与えた種子である。親(始動因)と成人した子(目的因)は別個体であり数的に異なるが、人間という種において同一なのである。

 技術による製作においても、始動因は目的因(形相因)と種において同一である。例えば家の製作の場合、次のように考えられる。「家は何の為に作られるのか」と問われれば、「家財を保護するために」家は作られたと答えられよう。これが、家の目的因と呼ばれるものである。「家は何であるか」と問われれば、家の目的(機能)を果たすものとして、「家財を保護するもの」と答えられよう。これは、家の形相因である。つまり、目的因と形相因は、一般的にいって、同一なのである。ところで、家が作られるとき、材料が家になっていく工程を直接動かす原因としての始動因は、大工である。ところで、その大工は、他の何者でもなくまさに大工として家を作っているのであるから、始動因として、大工のもつ「大工術」を指定してよい(B3:195b23-25)。また更に、他の何物でもなく家をつくっているのであるから、大工のもつ大工術の中でも、始動因として、家というものを定めている「家の形相(≒家の設計図)」を特定することができるであろう(cf.PA A1:639b17-18,Metaph.Z7:1032b1,23)。そして、始動因は、質料に形相を与えて続けているのである (Γ2:202a9)。つまり、まだできていないこれから作られるべき「家(目的因=形相因)」と、家の製作過程において、作っている者(大工)に内在する「家」とは、もとより数的同一性をもたない訳であるが、種(形相)においては同一なのである。技術はこのような意味で始動因であり、技術は、いわば予め目的(形相)を把捉して、その目的へ向けて一連の過程を導いていくのである。それゆえ、技術による製作における始点から終点に到る一連の過程は、目的に向けて導かれているのである。

 ところで、家の設計図(形相)がある場合、それは既にある程度材料(質料)を指定している。特定の形態の家であるためには、材料が特定の性質(強度や重量等)をもっている必要があるからである。ところが、既に与えられた特定の材料を使って、家の設計図に従って製作しなければならない場合もある。その場合、或る程度、思案(計画)することが必要になろう。しかし、それはまた別に考えるべき問題であろう。先ず、技術が始動因であることは、上述のような概念的な仕方で理解されるのである[25]

 こうした仕方で、目的論的連関の基本性質は、一連の過程が目的の為であることにあり、自然と技術はそれぞれこうした目的論的連関を可能にする始動因として捉えられる。この点が類比の基盤を形成しているのである。

 第3項 方法論的モデルとしての技術

 しかし、もとより「人間は人間を生む」ということで自然の探求が終わっている訳でない。家が建築される原因として、家の設計図をもつ者を指定するならば、同語反復的であり何の情報も含まれていないのと変わらない。目的因と種的に同一な始動因であることが技術と自然の類比の基盤を形成するが、それは概念的な枠組みであり、内実は探求されなければならない。このとき類比が必要となる。技術が始動因であることの内実の方が、自然が始動因であることの内実よりも、より知られている訳であり、技術の事例から自然の事例に対し類比がなされているのである。

 ところで、こうした類比は、まだ実際に自然の探求を始めておらずその方法論的な考察をする場合、詳細に立ち入らず論点を明らかにできる点で有効である。いわば技術は、自然による生成のあり方を示す「解説のモデル」として利用できるであろう。しかし、自然と技術は、始動因であるという点で同様に考えられるとしても、様々な異なる特性をもっている訳である。技術を技術として考えている訳ではない。解説のモデルとして限定的に使用することを明記していなければならない。

 また、他方、技術が単に解説のモデルに留まらず、実際の自然の探求において示唆を与える「発見のモデル」として利用されるのであれば尚更のことである[26]。技術の特性であるとしても自然の特性ではない事柄が混入しないために、発見のモデルとして利用される技術は明確に限定されていなければならない。

 技術は、解説のモデルとしてであれ、発見のモデルとしてであれ、自然の探求の方法論的モデルとして確定されるべきである[27]。そして、アリストテレスが技術を方法論的モデルして用いていることは、技術と自然の類比による議論から読み取れるのである。

 アリストテレスは類比をおこなうのに先行して自然と技術との相違を対比的に捉えていた。すなわち、『自然学』第二巻の叙述を始めるにあたり、「存在するものの内、或るものは自然によってあり、或るものは他の原因の故にある(B1:192b8-9)」と述べる訳であるが、「自然によってあるもの」と対立させられている「他の原因の故にあるもの」とは、「技術によってあるもの」を典型としているのである(B1:192b16-19)。ここでの対比の要点は、自然によって生成したものの場合、自然が生成変化の始源(原因)としてそのものに第一に自体的に内在するのに対し、技術によって生成したもの場合、生成の始源は他の外部のものにある点にある(B1:192b20-23,28-30)。例えば、技術によって生成するものとして家を考えれば、その生成過程は、材料となる木や石が自ら家を形作るのではなく、材料となるものに外から大工(技術者)が働きかけ材料から家を形作っている訳である。それに対し、自然によって生成するものは、動植物の生成成長に見られるように、外からではなく内在する自然が生成を導いているのである。そしてこの区別は厳密に考えられており、医者が自分自身を治療する場合、変化の始源(医術)が変化を受けるもの(患者)の内に内在するけれども、その場合始源が自体的に内在するのではないとされ(B1:192b23-26)、自然との区別が確認されるのである。

 こうした自然と技術における原因の内在性と外在性という相違にも関わらず、前項で述べたように、自然も技術も一連の生成過程において目的論的連関の形成する始動因であること(始動因は目的因との種的同一性)を確認することはできる。つまり、アリストテレスは、基本的にこの点において、技術をモデル化しようとしているのである。技術をモデル化するに当たり、原因の内在性と外在性という相違を先ずいわば思考実験によって除去する。つまり、一方で、家が自然によって生成したとするなら、実際に技術によって生成するような仕方で生成したであろういい、他方で、自然によるものが自然によるだけではなく技術によっても生成したなら、自然による場合と同じ仕方で生成するという(B8:199a12-15)。特に前者の想定は現実には考えにくい訳だが、こうした思考実験によって、自然による場合と技術による場合を相互に類比させるのである(B8:199a9-11) 。

 そして、更にこうした思考実験は、技術を自然のような内在的原因として想定することへと進展する。つまり、造船術(技術)が木材(質料)に内在したならば、自然によって技術による場合と同様になされただろうとされる(B8:199b28-29)。そして、自然と技術が対比されたときに挙げられた同じ医者が自分自身を治療する場合の例を用いて、自然は正にそうした自分自身を治療する医者のようだとされるのである(199b30-32) 。このように、技術を質料に内在化させ、技術が本来もつ外在的原因という特徴を括弧に入れたのである。こうして技術は自然の探求における方法論的モデルとして確立する。

 ここで改めて強調すべきは、技術が、始動因として目的因と種的に同一であり、一連の生成過程において目的論的連関を形成する点にモデルとしての意義があり、その点に関わらない技術の諸特性は除去されなければならない点である。自然探求の方法論的モデルとしての技術は、技術を技術として考察する場合、或いは技術を別の考察(例えば倫理学的文脈での考察)のモデルとして想定する場合とは異なるべきである。目的論自然始動因説における技術からの類比の議論は、前章で見たように、(V1)誤りの可能性の議論と(V3)思案の不在の議論に現れる訳であるが、そこでは自然探求の方法論的モデルとしての限定的性質が、倫理学における技術概念との明確な対比において示されている。

 (V1)で問題になったのは、目的論的自然始動因説が主張されるのであれば、必ず特定形態の生物が生まれ「奇形」は存在しないはずだが、「奇形」が存在するではないかという批判である(と想定した)。これに対し、技術は目的達成を目指しながらも誤ることがあるとされた。そして、技術との類比により、目的論的自然始動因説は「奇形」の存在を扱えることを示している。しかしながら、倫理学(行為論)的文脈の中では、技術者は故意に誤ることができるとされる(Pl.,Hp.Mi.375D2-E1,cf.Metaph.Θ5:1048a7-11)。もし自然探求の方法論的モデルとしての技術にこうした「故意に誤る」という特性を含めるならば、始動因と目的因との種的同一性を否定し、議論が成立しないことは明らかである。人間は人間に成長するのであり、人間でないものに成長することを可能にするような(選びとるような)契機は含まれない。自然探求のモデルとして、技術者は(何らかの阻害要因がなければ)ただ予めもつ技術を行使するものとして想定されるのである(B8:199a10-11)。技術者の「故意に誤る」という特性は、行為者のもつ或る特性(意志)を明示しようとする考察において有効であっても、自然探求に関わらない特性である。それゆえ、そうした特性を排除して技術を自然探求の方法論的モデルとしているのである。

 (V3)で問題になったのは、自然による生成過程に思案はなく、そうであれば目的論的連関は認められないという見解であった。それに対し、技術も思案しないとされ、技術による製作過程に目的論的連関を認めるならば、目的論的連関の成立に思案は必要な契機ではないとされたのである[28]。しかしながら、倫理学(行為論)的文脈の中では、技術者は思案すると指摘される(EN Γ3:1112b4-6) 。自然探求の方法論的モデルとして技術に思案が否定されるのは、自然の生成過程に思案が認められないという事実から慌てて追加された(ad hoc)条件ではない。むしろ、第2章第4節で論じたように、思案は、別に考えるべきことだからである。行為論の文脈において、技術者の思案が問題になるのは、どんな種類の技術に思案が必要であるかを考察することで、思案が多くの場合そうであっても不確定なことを含む場合に必要であることを照らしだすためであった。しかし自然学の方法論的モデルとしての技術に思案を認めることはできないのである。なぜなら、技術者が思案するのは、不確定な状況のため既にもつ技術だけでは有効ではない場合であり、そのときの思案はそのとき有効であってもその思案の結果を別の場面に利用することはできないからである。しかし、自然は、始動因として目的を先取し(始動因と目的因の種的同一)、同じ仕方で働くことで恒常的に目的論的連関を形成しているのである。技術者は、思案せず予めもつ技術(例えば家の設計図・製作マニュアル)を、常に用いる仕方で考えられなければならないのである。これが自然探求における方法論的モデルとしての技術であり、技術は思案しないとされる理由である。

 以上のように、技術は自然探求の方法論的モデルとして限定された概念として理解されている。その限定の意味は、自然と技術は、始動因が目的を先取することで、一連の過程を特定の目的に向けて形成し、それをいつも同じ仕方でする点にあるのである。そこに素朴な仕方での不当な類比など見出せない。そこにあるのは、むしろアリストテレスの方法論的意識である。

目次

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送