『自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に関する研究』 (1999)

第2章 アリストテレスの目的論的自然学

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notes

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第1節 アリストテレスの目的論
第2節 目的論的自然始動因説への難問
第3節 目的論的自然始動因説の難問への論駁  
 補遺──排除主義と還元主義
第4節 始動因としての自然              
第5節 質料因としての自然  

 

 前章第3節で、『自然学』第2巻7章は、自然学の方法論を与えるものであることを論じた。アリストテレスの自然学は四原因をすべて探求し、その探求は目的因を焦点としてなされるのである。そうした探求方式の提示に続くアリストテレスの考察を検討したい。これまでの解釈は、『自然学』第2巻8章をアリストテレスの自然目的論、第9章を自然事象における必然性の考察とするものであった(特に8章については、今日の物理主義の諸形態──排除主義・還元主義・非還元主義──をめぐる活発な議論を背景として、実に多くの研究がなされている)。しかし、そうした解釈は、必ずしも明確ではなく、テキストに照らして正確ではない。

 『自然学』第2巻7章から9章に到る一連の考察は、アリストテレスの目的論的自然学の構想であると位置づけられる。自然を四原因のそれぞれとして把握することがその主題である。自然が目的因(=形相因)であることは考察の支点となることであり、それ自体は論じられない。第8章は、始動因としての自然の問題であり、第9章は(先行する自然学者に由来する)質料因としての自然の問題である。このように一連の考察を考えるとき、アリストテレスの自然学の方法論は全容を示すことになる。

 『自然学』第2巻8章の問題を、これまでの自然目的論という多義的解釈にかえ、自然を始動因と捉えることに確定し(第1節)、自然を始動因と捉えることへの障害となる見解についてのアリストテレスの検討を考察する。『自然学』のこの部分はこれまで様々な解釈がなされてきた事情があり、訳出して詳細に考察する(第2─3節)。そして、第2巻8章の残りについて考察する。第2巻8章は、これまで雑多な考察の集積とされていたけれども、自然を始動因と捉えることにあると見ることで、一連の考察が全体として理解されることになる(第4節)。最後に、自然を質料因として捉えることを主題とする第2巻9章について考察する。それは自然事象一般の必然性の問題を扱うものではない。先行する自然学者のいう「必然性(物理的必然性)」を質料因として位置づけることにその眼目がある(第5節)。アリストテレスの目的論的自然学については近代科学的視点からの批判がある訳であるが、それについては次章で検討する。


第1節 アリストテレスの自然目的論

 アリストテレスは自らの課題を、「何故〔いかなる仕方で〕、自然が『何かの為に』〔ある〕原因 (των ενεκα του αιτιων) であるのか(B8:198b10)」と設定している。そして、最終的にこの問いに応じて、自然は「『何かの為に』〔ある〕意味での原因 (αιτια ως ενεκα του )」であるとされるのである(B8:199b32-33)。研究者は、この課題を、自然の目的論であると考えてきた。そのこと自体決して誤りとはいえない。しかし、単に自然の目的論といっても、そのことで何が意味されているのか明確とはなっていない。先ず、目的論といわれるいくつかの可能性を取り上げ、その中からアリストテレスの課題を限定しておくべきである。

 目的論という場合、目的を論じていると考えられがちである。「AはBの為にある」というAとBの事象の連関を想定れば、目的と呼ばれるのは、Bである。他方、Aについては、更に分節を要するけれども、ともかく「目的Bの為にあるもの」である。つまり、目的論は、「AはBの為にある」という連関においてBを論じていると考えられるのである。しかし、それはアリストテレスの課題ではない。問われているのは、「『何かの為に』〔ある〕原因 (των ενεκα του αιτιων, cf.αιτια ως ενεκα του)」である。つまり、「AはBの為にある」という連関においてAに当たるものが問題なのである。他方、目的( το τελος )としての原因が問題であるのであれば、「『何か(X)の為に』という場合のその何か(X)としての原因( η αιτια η ου ενεκα )」と表現されるのである(B8:199a30-32.cf.B2:194a28-29)。そして、もちろん、この二つ(A・B)は異なるのである(cf. το τε γαρ ου ενεκα και το τουτου ενακα διαφερει, GA B6:742a20-21) [1]

 では、アリストテレスは目的を問題としないのか。確かに、「AはBの為にある」という連関において、Aは問題とするけれども、Bは問題としないことはありえない。しかし、自然が目的因( η αιτια η ου ενακα )であることは、「形相因としての自然 (η φυσις ως μορφη)」として前提されていることであると考えられる(B8:199a30-32, cf.B1:193a30-b18, B2:194a12-13)。つまり、自然が目的因(=形相因)であることを論述によって確定しようとしているのではないのである。

 さて、「AはBの為にある」という連関において、Aとしての原因が論じられるとしても、アリストテレスの目的論が明確になったとはいえない。原因はすべて、四原因に定型化(還元)されると論じたばかりであり(B7:198a23-24)、問われる原因がその何に当たるのか問題にすべきである。

 ところで、アリストテレスは、別の著作で、「AはBの為にある」という連関におけるA、つまり、「それ〔目的〕の為にあること( το τουτου ενεκα ) 」の二義性を指摘している。その一つは、(a)始動するもの (οθεν η κινησις)であり、もう一つは、(b)目的が使用するもの (ω χρηται το ου ενεκα)である (GA B6:742a22-24)。(a) は、生み出すもの (το γιννητικον) と言われ、(b) は生み出されるものへの道具 (το οργανικον τω γεννωμενω) と言われる (GA B6:742a24-25)。そして、(a) は笛を学ぶ者の教師、(b) は笛を学ぶ者にとっての笛だと例示される(GA B6:742a26-27) 。笛を学ぶとは、笛吹きになる過程にあることを意味する。このとき、目的因は「笛吹き(となること)」である。(a) 教師は笛吹き(目的)になるまで生徒を導く者であり、(b) 笛は笛吹き(目的)になるのに必要であり有益な物である。

 さて、こうした二義性は、「AはBの為にある」という連関におけるAとしての原因(「何かの為に」〔ある〕原因)の二義性を示唆する。Aとしての原因とは、前述の二義性(a)(b)に応じて、(a)始動するものとしての原因、(b)目的が使用するものとしての原因である。四原因のうち残る始動因と質料因は、それぞれ(a)(b)に位置づけてよいであろう[2]。つまり、アリストテレスの課題として、自然が始動因であること、或いは自然が質料因であることという二つの可能性が考えられるのである。

 アリストテレスの課題を示す「自然が「何かの為に」〔ある〕原因である」という表現から考えられるのは以上のことである。自然が始動因であることを論じるのか、或いは自然が質料因であることを論じるのかについては、実際の議論によって明確にされなければならない。その意味は、『自然学』第2章7巻までの概要は本論前章で振り返ったけれども、その範囲ではその何れの原因であるとも判断できないということである。例えば、自然が質料因であるという見解は先行する自然学者のものであり、アリストテレスの見解ではない。それゆえ、自然が始動因であることを論じているのだという解釈は成立しない。アリストテレスは自然が形相であるか質料であるかという論争において、形相説に優位性を認める(B1)。また、「偶然論(B4-6)」の中で、自然は(或る目的に適合する結果をもたらす)始動因であるとされる(B5:196b21-22, B6:198a2-4,5-13, cf.B4:196a30)[3]。しかし、自然が質料であるという見解を放棄した訳ではないのである(B8:199a30-31)。

 アリストテレスの実際の議論によって、初めて、自然が始動因であることを論じていることを確定できる。議論の中から特に次の二点を指摘しておきたい。一つは自然と技術の類比である。一連の議論の中で、この類比は三回なされる。ところで、技術による製作において、技術(者)が始動因の位置を占めることは明らかである[4]。もう一つは、先に(前章第4節)四原因の探求方式との照応である。すなわち、議論に見られる次のような原因としての自然理解は、始動因の探求方式に照応するのである。

自然によるすべてのものは、常に或いは多くの場合にそのように生じる
παντα τα φυσει η αει ουτω γιγνεται η ως επι το πολυ (B8:198b35-36)

自然による生成は、何かの妨げがなければ、常にそのようにある
εν δε τοις φυσικοις αει ουτως, αν μη τι εμποδιση (B8:199b25-26)

*始動因の探求方式(B7:198b5-6)

何が必然的に(端的に或いは多くの場合に)目的を生成させるか
οτι εκ τουδε αναγκη τοδε ( το δε εκ τουδε η απλως η ως επι το πολυ )

 さて、アリストテレスの目的論とされてきた『自然学』第2巻8章の課題が、自然が始動因であるという点にあることを予め概観した[5]。しかし、アリストテレスの目的論とは、自然が始動因であることを意味すると言っている訳ではない。アリストテレスの自然事象に関する目的論の全容は、むしろ四原因の探求方式に求めるべきである。つまり、目的因を焦点として他の原因を探求する仕方である。四原因説とは、自然の探求において、自然が四つの仕方で原因であることなのである。先行する自然学者の自然把握といえる「質料としての自然」さえも、アリストテレスのこうした目的論の中でしかるべき位置を占めることになる。つまり、先行する自然学者の「必然性」を、目的の生成にとって必要なものとして、質料因に位置づけるのである。しかし、これは後続の第2巻9章の主題となる問題である。


第2節 目的論的自然始動因説への難問

 アリストテレスは先ず自らの課題に対する難問を吟味する。アリストテレスは課題に向かうとき、予め難問を総覧吟味するという方法をとるが、そうした方法に則っているのである。難問となるのは、(1) 自然は或る目的の為に作用するという見解への否定と、(2)自然は必然的に作用するという見解の主張である( τι κωλυει την φυσιν μη ενεκα του ποιειν ... αλλ'...εξ αναγκης ) 。(1) は、自然が或る目的の為に働く始動因であることを否定し、(2) は、自然は物理的必然性による原因であると主張する。以下では(冗長であるけれども誤解を避けるために)、(1) で否定される見解を、「目的論的自然始動因説」と呼び、(2) で主張される見解を、「必然論的自然原因説」と呼ぶこととする。

 アリストテレスは、後に改めて目的論的自然始動因説へのいくつかの批判を取り上げている。しかし、この難問がアリストテレスにとって入念に準備されたものであることは、次の叙述から伺えるであろう。

〔目的論的自然始動説に対して〕誰か疑問を呈しうるとすれば、その論拠となる議論は、以上のようであり( ο μεν ουν λογος, ω αν τις απορησειεν, ουτος ) 、何か別の議論があるとしても、このようなものである。しかし、〔自然による生成が〕この仕方で成立することは不可能である。(B8:198b32-34)

つまり、目的論的自然始動因説への難問となるいわば唯一可能な議論として、吟味しようとしているのである。その議論が成立不可能であるならば、目的論的自然始動説への難問は払拭されているといってもよい。ところで、アリストテレスのここでの論述が、難問の吟味検討にあり、難問が払拭されれば目的論的自然始動因説の積極的展開への道をひらかれるということに留まることは、先ず確認されるべきである。アリストテレスの見解は、後の議論にまたなければならないのである。しかしながら、多くの研究において、ここでの難問吟味の議論のみからアリストテレスの自然目的論についての見解を引き出そうとしている[6]。確かに、難問吟味からアリストテレスの見解を引き出すことは可能である。しかし、難問吟味において、アリストテレスの見解を前提することはできない。その場合、難問を提示した必然論者の見解とアリストテレスの見解が平行線をたどることになる。必然論者はただアリストテレスの見解を認めなければよいのである。アリストテレスの難問吟味は、難問に内在する困難を摘出するものであり、必然論者の立場に立って、難問を提示する議論は自己論駁的でありそれ自体として不可能( αδυνατον )だとしているのである。

 さて、この難問吟味の箇所は、これまでの研究において様々な解釈が提示されてきたという事情があり細かな点についての検討を要する。それゆえ、訳出しながら、順次解釈を固めていきたい。予め概観するならば、(1) 目的論的自然始動説の否定と(2) 必然論的自然始動説の主張は、(A)降雨の事例について、そして、(B)生体の部分(歯)の事例についてなされる。その場合、(A)について主張してから、類比的に(B)について主張するという形をとる( ωστε ... ουτω και ...,198b23-24)。それゆえ、(A)と(B)とは並行的事例になっていなければならない。しかし、実際には並行的事例ではなく、(B)については、(A)では必要とされない前提(適者生存説)が追加されているのである。アリストテレスが指摘するのは、この追加前提を必要とする限り不整合であり、必然論的自然原因説は自己論駁に陥るという点である。

 先ず(A)降雨の事例についての主張は次のようになされる。

自然は、(1) 何か〔i.e.或る目的(或る結果)〕の為に働くのではなく、それ〔i.e.或る目的(或る結果)〕がより善いという理由から働くのでもなく、自然は、ちょうどゼウスが雨を降らすように、(1) 穀物を成長させる為にではなく、(2) 必然的に働くとして何の差し支えがあろう。というのも、上昇したもの〔i.e.空気(蒸気)〕は冷却されるのが必然であり、冷却されたものは水となって落ちるのが必然である。(1) そして、そのこと〔i.e.降雨〕が起こったとき、穀物が成長することが結果として付帯するのである。(B8:198b17-21)
〔(1) は目的論的自然始動因説の否定、(2) は必然論的自然原因説の主張を示す〕

ここで、(1) 自然は或る目的の為にではなく、(2) 必然的に働くとことが主張される。先ず、(2) 必然論的自然原因説の内実を、熱冷乾湿という四元の本性的必然性(以下、物理的必然性と呼ぶ)によって与えている。そして、(1) 穀物の成育は雨の目的ではなく、それは物理的必然性の働きに結果として付帯することだと主張することで、目的論的自然始動説を否定しているのである。

 しかし、穀物の成育を目的であると考えている者が、穀物の成育が結果として付随することだとは認めなければ、相互の主張が平行線をたどる可能性が残り、目的論的自然始動因説の否定されない。以下は、穀物の成育が付随することであることに説得性をもたせるための議論であると考えられる。

ところで、同じ様に、誰かの穀物が脱穀場で〔雨に濡れて〕だめになるとしても、雨は、穀物をだめにしようとしてそのこと〔i.e.穀物がだめになること〕の為に降るわけではなく、そのこと〔i.e.穀物がだめになること〕は結果として付帯したのである。(B8:198b21-23)

ここで、穀物の成育を目的と考えている者が、それを目的ではなく、結果として付帯するものであるを認めるようにするために、目的であるとは考えにくく、結果として付帯すると考えざるをえないような事例「穀物の破滅」を挙げているのである。穀物の成育という事例では、日常的な了解として、善いことと考えられ、それゆえ穀物の成育を目的として「穀物の成育の為に雨が降る」という表現を許容する[7]。しかし、穀物の破滅という事例は、善いこととは考えにくく、穀物の破滅を目的として「穀物の破滅の為に雨がふる」という表現をとれない。この場合、穀物の破滅は、降雨に結果として付帯することであると考えざるをえない。しかし、もしこれを認めるならば、穀物の成育をもたらすにせよ、穀物の破滅をもたらすにせよ、降雨を一般的に考える場合、目的論的自然始動因説をとる者は一貫していないといわなければならない。善い結果をもたらす場合はそれを目的と考え、悪い結果をもたらす場合にはそれを結果として付帯するものと考えるからである。つまり、穀物の破滅を自然の生成に付帯するものであることを認めるならば、穀物の成育を目的ではなく自然の生成に付帯するものとして認めよという訳である[8]

 ところで、こうした議論について、目的論的自然始動因説の放棄を迫るものでなく保持できることを指摘しておいてもよい。穀物の破滅が自然による生成に付帯することだと認めたからといって、穀物の成育が自然の生成に付帯することだと認める必要はないのである。それは自然による生成といわれる範囲が、目的論的自然始動因説と必然論的自然原因説では異なるからである。目的論的自然始動因説は、穀物の成育を目的として「自然が穀物の成育の為に雨が降らせた」と主張するのであれば、穀物の成育まで含めて自然による生成と考えていることになる。穀物の破滅が自然による生成に付帯すると認めたのは、こうした自然による生成(自然が穀物の成育の為に雨を降らせること)に付帯することであると認めたのであり、決して、物理的必然性の働きに付帯することだと認めた訳ではない。そしてまた、自然による生成は、後に論点となるように、「恒常的にそう生成する」という条件を充たす必要がある。目的論的自然始動因説において、穀物の成育まで含めるとしても、この条件は充たされると考えてよいが、それに対して、穀物の破滅を含めて自然の生成とするならば、この条件を充たさない。「誰かの穀物が脱穀場で〔雨に濡れて〕」といった限定が付かざるをえない例外的事例だからである[9]。目的論的自然始動因説は、穀物の破滅のみを付帯するものと考えても、何の不都合も生じないのである。

 しかしながら、目的論的自然始動因説を保持できるかどうかは、実のところ、アリストテレスの論述において重要な点ではない。アリストテレスは、目的論的自然始動因説が保持できる点で難問を回避できると考えている訳ではなく、先に見たように、難問を提示する議論が不可能である点で難問を回避しようとする。しかし、現段階で、難問の議論に何ら不整合は生じていない。つまり、必然論的自然原因説にとって、自然による生成は、物理的必然性によるものであり、恒常的である。そうした自然による生成に、穀物の成育にせよ、穀物の破滅にせよ、付随しているという訳である[10]

 さて、目的論的自然始動因説の否定と必然論的自然原因説の主張が明確にされた(A)降雨現象は、必然論者にとって範型事例であるといえる。こうした範型事例から、むしろ目的論的自然始動因説にとっての範型事例というべき(B)生物の部分について、主張が拡張される。

したがって、自然による〔生物の〕諸部分にしても、〔降雨事例と〕同様であるとすることに、何の差し支えがあろうか。例えば、(2) 歯は、前歯の場合、鋭く噛み切るのに適し、奥歯の場合、平たく食物を砕きつぶすのに役立っているが、必然的にこのように生えたということに、何の差し支えがあろうか。なぜなら、(1) 歯はそのこと〔i.e.噛み切ることに適し、食物を砕きつぶすことに役立つこと〕を目的としてはえたのではなく、結果として随伴した〔i.e.鋭く、或いは平たくなった〕( συμπιπτειν )のであるから。ところで、「何か〔i.e.或る目的〕の為に働くもの」が内在しているように思われる〔生物の〕他の諸部分についても、同様である。(B8:198b23-29)
〔(1) は目的論的自然始動因説の否定、(2) は必然論的自然原因説の主張を示す〕

(A)降雨の事例での主張を、(B)生物の諸部分について拡張し、例えば、前歯が、鋭く噛み切るのに適したものとして、生成していることについて、(1) 歯は或る目的のために生えたのではなく、(2) 歯は必然的にはえたのだとしている。しかし、この場合、必然論的自然原因説に大きな障害がある。つまり、「或る目的の為に働くもの( το ενεκα του )」が内在しているように思われる( δοκει ) ことである。「或る目的の為に働くもの」とは、目的論的自然始動因説のいう自然である。つまり、自然は、「噛み切るのに適し、食物を砕きつぶすのに役立つ」という目的(有益性)の為に、歯を生じさせていると考えられるのである(つまり、後に見るように、鋭さや平たさといった特定の形態をもつものして生じると考えられている)。このことを認めるならば、必然論的自然原因説は、目的論的自然始動目的論を承認することになる。そこで、そうした有益性は、自然の必然的働きの単なる結果( συμπιπτειν )であるという主張するのである。

 しかしながら、この議論には問題がある。少なくとも、(A)降雨の事例での議論と並行的にするために、「穀物の破滅」に対応するような、歯の生成によって有益とは考えられない結果をもたらしている事例も挙げるべきである。しかし、観察事実として、生物の諸部分は有益なのであり、有益でない諸部分をもつ生物は見つけにくい。この自然学者は、そうした観察事実を、必然論的自然原因説の中で説明するために、(A)降雨の事例では含まれない新たな適者生存理論を導入するのである[11]

こうして、〔生物の諸部分の〕すべてが、あたかも或る目的の為に生じたかのように結果として付帯した( συμβαινειν )という場合には、偶発的に( απο του αυτοματου ) 〔生物の諸部分をその機能にとって〕適合的に組成( συνιστασθαι ) することで、それら〔の生物〕は生き残ったのである。しかし他方、そのようにできていないもの〔=生物〕は、ちょうどエンペドクレスが「人間の顔をした牛の種族」について述べているように、滅び去ったし、また滅んでいるのだ。(B8:199a5-8)

生物の諸部分が「あたかも或る目的の為に生じたかのように、結果として付帯した」というのは、歯の場合でいえば、「噛み切るのに適合し、食物を磨り潰すのに役立つ」といった有益性に適合する「鋭さや平たさ」といった形態が、自然の物理必然的働きに結果として付帯していることをいっている。しかしながら、こうした特定の形態のみが結果として付帯することは保証されない。(降雨事例での「穀物の破滅」に対応するような)有益性に適合していない別の様々な形態も結果として付帯しているということになるはずである。物理必然性からは、様々な形態の歯が生成する。それゆえ、「偶発的に〔機能にとって〕適合的に組成する」というのである。特定の形態の歯が生成していることは、物理的必然性の射程外のことであり、必然論的自然原因説にとって偶発でしかない。しかし、これは、食物の咀嚼に適合する形態の歯が恒常的に生えているという自然による生成の事実を、物理必然性から説明することを断念することを意味する。そして、特定の形態の歯が恒常的に生成しているという事実を、適者は生き残るが適者でない者は絶滅するという適者生存説を導入することで、説明しているのである[12]

 これまでの議論を整理すれば次の図のようになる。

 
  * 物理的必然 ─→

* 随伴結果・・・・

 

 

(A) 降雨   ┌─穀物の成長  

水の蒸発凝結─―

─→降雨 ・・・・・・・  
    └─穀物の破滅  
       
(B) 生体の部分      
  ┌→形態1・・・・・・ 適合的(生存種の歯)・・ ・・食物の咀嚼

四元─―――

┼→形態2・・・・・・ 非適合(絶滅)  
  ├→形態3・・・・・・ 非適合(絶滅)  
  └→ …     

 さて、以上が自然必然論者の提示した議論であるが、次の二点を確認しておきたい。先ず、ここでの自然必然論者は、以上の議論から理解される限りの者でなければならないという点である。アリストテレスが吟味しようとするのは、そうした者であり、自然を物理的必然によって考えようとする者一般ではない。例えば、デモクリトスは、特定の形態をもつ歯が物理的必然性によって生成すると主張する (GA E8:789b2-4, 788b34-789a4, cf. B9:200a1-5)。アリストテレスの吟味がそうした者も含むと考えるならば、アリストテレスの批判を理解できなくなる。想定されている自然学者を名指すならば、先に引用で言及されたエンペドクレスである[13]。しかし、このことはデモクリトスを避けているということではなかろう。エンペドクレスが(唯一可能な)難問であったのは、特定の歯の生成がともかく説明されているように見えることにあると考えられる。

 もう一点は、自然必然論者のいう「自然による生成」の領域の問題である。(A) 降雨の事例では、物理的必然性の射程と一致する。しかし、(B) 生物の部分の場合にも、自然による生成領域は、物理的必然性の射程と一致し、物理的必然性が説明する限りの自然による生成領域しか認めていないと想定することはできない。デモクリトスの場合とは異なり、特定の形態の歯が物理必然的に生成するとは考えていない訳であるから、物理的必然性から生成するのは様々な形態の歯である。この場合、形態上とても歯とは呼べないようなものまでも含まれてこざるをえない。しかし、自然による歯の生成として、こうした事態を考えているとは想定できない [14]。実際、自然による生成領域に ( εν τη φυσει ) 、特定の形態(それゆえ特定の有益性)をもつ歯を説明しようとしている( τι κωλυει ... τους οδοντας εξ αναγκης ανατειλαι τους μεν εμπροσθιουος οξεις, επιτηδειους προς το διαιρειν, B8:198b24-27)。この点は、アリストテレスが必然論的自然始動説を論駁するときに重要であり、アリストテレス自身、こうした特定の形態の歯の生成を、自然によると必然論者自身も認めていると再確認していると考えられる(B8:199a5-7)。しかし、繰り返せば、物理的必然性による説明がともかくも成立しているのは、予め、適者生存説によって、現存する生物の歯に限定することで、他の様々な形態の歯の存在を排除した上のことなのである。



第3節 目的論的自然始動因説の難問への論駁

 アリストテレスは、前節の初めに引用したように、目的論的自然始動因説への難問を提示する議論が不可能であるといい、次のように反論を始める。

というのも、こうしたもの〔i.e.必然論者の挙げた降雨や生体の部分という自然による生成の事例〕や自然による事柄のすべては、常にそのように〔i.e.特定の仕方で〕生じるか、或いは、多くのばあいにそのように〔i.e.特定の仕方で〕生じるかのどちらかであるけれども、偶然によって (απο τυχης) や〔或いは必然論者も使う表現でいえば〕偶発的に (απο του αυτοματου) 起こる事柄は、どれも〔常に、或いは多くの場合に、特定の仕方では〕生じないのである。つまり、冬〔i.e.雨期〕にしばしば雨が降ることは、偶然によるとも、〔或いは必然論者の使う表現でいえば〕結果として随伴することによる (απο συμπτωματος) とも、思われないが、土用〔i.e.乾期〕に雨がよく降るとしたら、そう〔i.e.偶然によると〕思われるのである。また土用の猛暑はそう〔i.e.偶然によると〕思われず、冬に猛暑だとしたらそう〔i.e.偶然によると〕思われるのである。(B8:198b34-199a3) 

「常に或いは多くの場合、特定の仕方で生成する事柄」を「恒常的事象」と呼ぶ。(a) 自然による事象は恒常的事象であるけれども [15]、(b) 偶然による事象は恒常的事象ではないということが確認されている。これは、必然論的自然原因説への論駁の前提となることの一つである(次に引用する論駁の前提(A)である)。ところで、論駁が可能になるためには、論駁される者自身がその前提を承認しなければならない。つまり、(a)(b)は必然論的自然原因説によって承認されていなければならないのである。さて、(a) について、必然論的自然原因説は承認する。(a) 自然事象の恒常性を踏まえて、物理的必然性によって降雨や生体の部分の生成という自然事象を説明しようとした訳である。他方、(b) 偶然事象の非恒常性については、別の箇所で「すべての者が認める (παντες φασιν, B5:196b14, cf.B5:196b11-13,197a19-20,31-32,34-35)」とされるように、必然論者もまた承認していると考えてよい。ただし、それは、必然論者が何らかの特殊な偶然概念(アリストテレスの付帯的始動因としての偶然概念)にコミットしているということではなく、季節による気象事例から示されるように、(b) 偶然事象は恒常的事象ではないと、日常的用法に基づいて (cf. δοκει) 認められるのである[16]

 こうした(a) 自然事象の恒常性と(b) 偶然事象の非恒常性の確認に続き、必然論的自然原因説に論駁を与える。

そこで、(@)もし〔生体の諸部分は、物理的必然性の働きに〕結果として随伴することによる (απο συμπτωματος) か、それとも何か〔或る目的〕の為に (ενεκα του) かのどちらかであると思われるとすれば、そして(A)もし〔自然によって生成する〕ものは、結果として随伴することによるのでも、偶発的に (απο ταυτοματου)あることもありえないとすれば、(B)〔生体の諸部分は〕何か〔i.e.或る目的〕の為にあるのであろう。(B8:199a3-5)〔(@)の補い部分は以下での私の解釈を前提する〕

論駁は、 Modus tollendo ponens として知られる妥当な推論形式(P v Q, ¬P ├ Q) によってなされている。(@)(A)の「結果として随伴することによる」という表現が重要性をもつのであるが、次のように簡略化して整理しておきたい。
(@)偶然よるか、或る目的の為にかである(と思われる)。
(A)偶然によることではない。
(B)何かの為にある(ことであろう)。
もちろん論駁の正否は、(i)(ii) の前提の正当性にかかっている。(i)(ii) の前提を必然論的自然原因説が承認するならば、(iii) の結論を承認せざるをえない。必然論的自然原因説は(i)(ii) を承認しはしないと即断する前に[17]、この論駁に従い必然論的自然原因説を振り返る必要がある。

 これまでの多くの解釈は、論駁であるということ、つまり、目的論的自然原因説に対して難問を与える唯一可能な議論は不可能であること(B8:198b32-34) に十分配慮していない。アリストテレスのこの論駁を、目的論のための独立した議論かのように考え、理解可能な仕方で再構成しようとするのである。(@)の偶然によるか、或る目的の為にかという選言は、その選言の主張される議論領域が、自然による生成全般であれば理解しにくい。つまり、物理的必然性による場合もあるであろうという訳である。そのため、なんとか議論領域の限定をテキストに求めたのである。そのとき注目されたのが、先の(a) 自然事象の恒常性と(b) 偶然事象の非恒常性についての叙述への議論領域の限定「それら(198b34) 」であった。つまり、(a) 自然事象の恒常性、(b) 偶然事象の非恒常性の主張がなされる議論領域を、「何かの為に」ということが考えられる目的論的事象(必然論的自然原因説での生体の部分)に、限定しようとする試みが様々に提示されているのである[18]。確かに、こうした限定を施せば、(i) の選言は理解しやすい。

 (i) の選言が限定を要することは確かである。しかし、そのために、(a)(b)の議論領域を限定する必要はないし、そうした限定はそもそも不当であるといわざるをえない。(a)(b)の主張は、他の箇所でもしばしば繰り返される主張であり (GC B6:333b4-7, EE Θ2:1247a31-33, Rh.A10:1369a32-b2, cf.B5:196b10-14)、そうした主張に何らかの限定があるとは考えられない。(a)(b)は自然事象一般についての主張であり、必然論者の挙げる降雨にせよ生体の部分にせよ含まれていてよいのである[19]

 では、どのように、(i) の選言は議論領域を限定できるか。論駁である以上、必然論的自然原因説のうちに、限定を探るのが正当である。実際、(i)(ii) の前提で用いられる「結果として随伴するものから (απο συμπωματος)」という語句、(ii) で用いられる「偶発的に (απο ταυτοματου)」という語句は、必然論的自然原因説に現れる表現なのである[20]。つまり、必然論的自然原因説が「偶発的に」と「結果として随伴するものから」という表現を用いる領域が、(i)(ii) の議論領域なのである。必然論的自然原因説は、歯の形態は、何かの為に生じたのでなく「結果として随伴する」と主張し、「偶発的に機能に適合するように組成される」という。つまり、これらの表現を用いるのは、いずれも生体の部分(歯)の事例に限られる。

 なおかつ、(i) の選言は「(@)偶然よるか、或る目的の為にかであると思われる」という「思い」を示すものであり、必然論的自然原因説は、「思い (εν οσοις δοκει υπαρχειν το ενεκα του, 198b28-29, cf. ωσπερ καν ει ενεκα του εγιγνετο, 198b29-30)」という仕方では、「何かの為に」生じることを認めているのである。そしてそう認めるのは、生体の部分(歯)の事例に限られる。降雨の事例において「何かの為に」生じることは端的に否定されているのである。

 論駁のための前提である以上、(i)(ii) はこうした議論領域で理解しなければならないのである。

 しかしながら、こうした議論だけではまだ十分ではないとされるかもしれない。というのも、降雨事例において(「或る目的の為に」という選言肢は端的に否定されるが)偶然を問題とすることが可能であり、(i)(ii) の議論領域は降雨事例をも含むべきであると反論されようからである。降雨事例において、「(s) 結果として随伴する (συμπιπτειν)」という表現が現れていなくとも、「(sb)結果として付帯する (συμβαινειν) 」という表現が現れており、その表現は照応する概念を示しているという訳である。つまり、歯の事例において、「歯の有益性の為に」生じるのではなく「(s) 結果として随伴する」、降雨の事例において、「穀物の成育の為に」生じるのではなく「(sb)結果として付帯する」という仕方で対応しているのである(そして歯の事例には「(sb)結果として付帯する」という表現も現れる)。それゆえ、「(sb)結果として付帯する」という表現が、論駁の前提(i)(ii) に現れていないことは、議論領域の確定にとって十分ではないとされよう。

 この点については、既に確認している二つの事例での自然による生成の領域のずれから処理できる。必然論的自然原因説は、降雨の事例において、穀物の成育を、その説における自然(物理的必然性)による事象としていない。つまり、たとえ、穀物の成育を偶然によるとせよ、自然(物理的必然性)による事象において、偶然を認めてはいないのである。それに対して、歯の事例においては、歯の有益性を自然による事象に含めないとしても、それに密接に連関する歯が特定の形態であることを自然による事象であるとしている。しかし、それは物理的必然性による事象とはいえず、自然による事象のただなかで、偶然を認めている。アリストテレスの論駁が突くのはこの点なのである。このことをいわば隠蔽するために、前述のように、必然論者は適者生存説を導入し、物理的必然性によって説明される事象を特定の歯に限っているのである。

 こうして、論駁の前提の議論領域は確定された。

(@)生体の部分は、偶然によるか、何かの為にかである(と思われる)。
(A)(生体の部分を含む)自然による生成は、偶然によることではない。
(B)生体の部分は、何かの為にある(ことであろう)。

(i) は生体の部分(歯)という議論領域のもとで、必然論的自然原因説は(i) を認めざるをえない。(ii)は、(a) 自然事象の恒常性と(b) 偶然事象の非恒常性という一般的了解から、必然論的自然原因説も認めることである(実質的には、(A)は(B)の結論への前提として考える場合、当然(@)の前提が真となる場合で考えなければならないので、生体の部分に限定される)。そして、こうした論駁で決定的に重要なるのは、生体の部分が自然による生成であると必然論的自然原因説が認めていることである(B8:198b23-24,cf.PA A1:640b11-12,17-18) 。アリストテレスは、(@)(A)(B)の論駁に続いてその確認をとりつけて、難問の吟味を終える。

ともかくそうしたもの〔i.e.生体の部分〕はすべて自然によるのであり、こうしたこと〔i.e.難問を提示する議論〕を述べた者達自身そのように肯定するだろう。したがって、自然によって生成し存在するものには、「何かの為に働くもの( το ενεκα του )」〔i.e.始動因としての自然〕が内在するのである。(B8:199a5-8)

こうして必然論的自然原因説は(B)「生体の部分は、何かの為にある」を認めざるをえないのである。自然による生成について、偶然を認めたことで、自らの立場では否定されるべき(B)の目的論を認めざるをえなくなっているのである。こうして、目的論的自然始動因説へ難問を提示した議論は、破綻していることが明らかにされたのである。

 目的論的自然始動説への難問となる議論が不可能であるということを示すことが、議論の目標であると明言されている訳であるから、以上で当面十分である。確かに、アリストテレスは、(B)において、目的論的自然始動説を主張している。しかしここで次の二点を改めて注意しておきたい。一つは、前提の問題である。(B)の主張は、(i)(ii) に依存するものであり、(ii)「自然事象は偶然によらない」はアリストテレス自身も認めるとしても、(i) 「自然事象は、偶然によってか、或る目的の為にか」は必然論的自然原因説に由来する前提である。つまり、この議論は ad hominem な議論である。確かに、他の箇所から補足することでアリストテレス自身の理論(付帯的始動因としての偶然)において(i) を位置づけることは可能であり、実際後にはそうしている(B8:199b23-24)[21]。しかし、アリストテレスの理論を導入することは、必然論的自然原因説の論駁という点で不適切である。そうした特定の立場を必然論的自然原因説は認めないであろうし、認めることを前提するなら論点先取に等しい。その場合、アリストテレスは、目的論的自然始動説への難問の議論を退けるという自ら設定した目標を達成できないのである。

 もう一つは、(B)の主張の領域の問題である。ここでの議論から、ともかくも目的論的自然始動説を引き出そうとする場合、論駁である以上、議論の前提(i)(ii) 、特に(i)の選言が必然論者に認められた場合に限られなければならない。ところで、(i) が認められるのは、生体の部分(歯の事例)についてのみであり、降雨の事例については認められない。それゆえ、目的論的始動因説が主張されるのは、生体の部分(歯)の事例に限られなければならないのである[22]

 
補遺──排除主義と還元主義

 必然論的自然始動説が、自然による生成に関し、ともかくも選言をたてるとすれば、(C)であり、テキストにある(@)ではないとする解釈について検討する[23]

(@)偶然によるか、何かの為にあることかである(と思われる)。
(C)必然的に生成するか、何かの為に生成するか

確かに、(A)降雨の事例において、こうした選言を想定し、雨が穀物の成育の為に降るのではないと、(C)の後者の選言肢を否定することで、雨が必然的に降ることを主張したのである。この場合、(目的に当たるような)穀物の成育は、自然による生成の領域に含まれておらず、(目的に当たるような)穀物の成育は自然による生成から排除されている。つまり、自然による生成とは物理的必然性(四元の本性)による生成のことであり、自然が生成すると思われている穀物の成育は、自然による生成ではないという排除的物理主義 (eliminative physicalism) の主張をしているのである。確かに、降雨の事例についてはこのように考えることができる。

 しかし、(B)歯の事例において問題となるのは、(C)の選言ではない。歯は食物の咀嚼の為に生えるのではないと、(C)の後者の選言肢を否定することだけでは、直ちに歯が必然的に生えると主張できないからである。物理的必然性からは様々な形態の歯が生える可能性があり、特定の形態の歯に限定されないからである。特定の形態の歯が生えるのは偶然である。このとき、必然論的自然始動説は、(C)の選言ではなく、(@)の選言を想定している。つまり、食物の咀嚼の為に生成するのではなく、偶然に生成すると主張しているのである。この場合、(食物の咀嚼に適合する)特定の歯が生えるということを自然(物理的必然性)による生成とするために、特定の歯が生える原因を物理的必然性に還元するという還元的物理主義(reductive physicalism) の主張をしているのである(cf. εις γαρ ταυτην την αιτιαν < i.e. necessity> αναγουσι παντες, B8:198b12)[24]。そして、この還元のための仕掛けが適者生存説であるといえる。必然論的自然始動説は、特定の形態の歯の生成を物理的必然性によると主張する。しかし、それは、こうした適者生存説によって、物理的必然性から生じる様々な形態の歯のうちから、生き残った生物の歯のみに限定を加えておいた上でのことなのである[25]


第4節 始動因としての自然

 目的論的自然始動説への難問の論駁を見てきた訳であるが、その論駁を含め、『自然学』B巻8章での細かく見れば十ほどの議論は、これまで研究者に混乱した断片の集積でありどれ一つとして成功していないという印象さえ与えてきた[26]。それゆえ一連の議論が全体として理解されることはなかった。しかし、叙述順序に即した一連の議論に、アリストテレスの考察を追跡することは可能である。その場合、先ず必要なのは、一連の議論に統一的に理解することを可能にする視点である。つまり、一連の議論でのアリストテレスの課題を正しく理解することである。そうした視点を与えるのが、アリストテレスの課題を目的論的自然始動因説の論定と把えることである。本節では、『自然学』B巻8章の残る部分をそうした視点のもとに提示したい。ところで、ここでは新たな問題が生じている。すなわち、「自然と技術との類比」と呼ばれる問題である。それは、先の降雨事例についての(或る解釈のもとでの)目的論の主張とともに、アリストテレスの目的論への批判の対象となっているのである。しかし、こうした点については、章を改めて検討することにする。

 さて、一連の議論は、全体としていわば弁証的構成をとっており、先行する自然学者との問答によって展開されていると考えられる。問答の相手となるのは、目的論的自然始動因説(即ち、自然は「或る目的の為に」働く始動因であり、目的を恒常的にもたらすというアリストテレスの主張)に対し、難問を提示した自然学者であり、以下彼との想定問答が議論を導いているのである。一連の議論を叙述順序に即して大まかに分節すれば、三つの部分に分けられる。最初は(T)自然学者の難問とアリストテレスのそれへの論駁(198b16-199a8)であり、これについては前節までで検討した。次に、(U)アリストテレスの主張(199a8-32)、そして(V)先の自然学者からの反論に対するアリストテレスの再批判あるいは応答(199a33-33) が続く。(U)(V)の部分は、難問を退けたアリストテレスが積極的に論述を開始し、自然学者の見解の難点を自らの立場から鮮明にしていると考えられるのである。

 さて、以下では「AはBの為に( ενεκα ) ある」という仕方で事象ABが連関することを、目的論的連関と呼ぶ。アリストテレスの主張とした部分(U)は、更に(U1)目的論的連関の構造を述べる部分(199a8-20)と(U2)目的論的連関の存在から始動因としての自然を主張する部分(199a20-30) 、そして(U3)学説的位置づけ部分(199a30-32) に分節できる。

 先ず(U1)目的論的連関の構造として主張されることは、或る目的(T)がある場合に、その目的の生成に先行するもの及びそれに継続するものがともにその目的(T)の為に生じるということである。この主張の要点は、次に形式化して示すように、目的論的連関が、(a) 或る特定の目的に到る連続的過程がことごとくその目的の為にあるという仕方で連関していることである[27]。或る生成過程を時間に沿って 「P1 ,P2 ,...,Pn (=目的T)」と表せば[28]

(a) 「P1 はT(=Pn )の為、P2 はTの為、…」

と形式化されよう。目的論的連関はこうした連関として主張されているのである。しかし、他方、目的論的連関を次のように想定することも可能であると考えられる。つまり、(b) 単に先行する事柄がその直後の事柄の為にあるという仕方で順次連関する仕方である。それは同様に次のように形式化される。

(b) 「P1 はP2 の為、P2 はP3 の為、…」

後に(V2)で述べられるように、目的論的連関それ自体はそうした連関が恒常的に成立していることを含意しておらず、偶然に成立することも可能である(B8:199b18-20)。例えば、猿(或いは小児)が、手元にあるものを使って様々に手を加えることで何かを作ったという過程は、(b) の仕方であろう。つまり、その過程を細かく見ていけば、確かに近接する事象の間には、先行する事象が後続する事象の「役に立っている」という連関が見出せるけれども、離れた事象の間にはそうした連関は見出せないであろう(端的にいえば、猿はその過程で何かを作っていたが、それを壊してまた何か手を加え始めるということを想定できる)。このことはアリストテレスの主張する目的論的連関の成立にとって何が必要であるかを示唆する。

 アリストテレスは、こうした目的論的連関の構造を、技術による行為にも自然による生成にも、見られる一般的構造として取り出されている[29]。「行為がなされるように、自然による生成はあり、自然による生成のように、行為はそれぞれなされるのである (ως πραττεται, ουτω πεφυκε, και ως πεφυκεν, ουτω πραττεται εκαστον, B8:199a9-10) 。」そして、確かに、自然や技術による目的論的連関の成立は、上記(b) のような、いわば行き当たりばったりの仕方ではなく、(a) のような、先行する生成過程がすべて目的を参照する仕方であることを認めることができる。その場合に自然や技術がもつ特性として、次の二点が重要であろう。自然や技術は、(1) 始動因として、いわば目的を先取りしていること、そして、(2) 始動因として、生成(製作)過程において、連続的に働いていることである (φυσει γαρ, οσα απο τινος εν αυτοις αρχης συνεχως κινουμενα αφικνειται εις τι τελος, B8:199b15-17) 。ここでは、(1) についてのみ注意しておきたい。

 (1) は、次のような目的論への批判、疑問を排除し、始動因の目的因との関わりを明らかにする。(a) 先行過程すべての目的への参照において、時間に後続し実現しない可能性を含む目的が先行過程へ物理的に作用することを想定しているという批判、疑問である[30]。目的自体が作用している訳ではなく、こうした連関を形づくるように生成過程を導く始動因が、目的(=形相)をいわば先取し、その目的(=形相)において統一的過程をかたちづくっていくのである。このことが、始動因は目的因(=形相因)と「種」において同一だということで意味されることである。つまり、技術による行為であれば、例えば、家をつくる場合、家の形相(例えば設計図)をもつ大工が始動因としてつくる訳である。自然による生成については、例えば(後で述べられる)、生物の生成過程に先在する種子が始動因の例である。

 続く(U2)では(B8:199a20-32)、目的論的連関は人間以外の動物に特に明らかであるとし、目的論的連関の存在から、始動因の存在を主張する。確かに(U2)の議論の中で、目的論的連関の成立が見出されるのは、「或る目的に役立つものが生じている」、例えば、木の葉が果実の保護の為に生じている点においてである(B8:199a24-25)。しかし、(U1)の議論の展開から( μαλιστα δε φανερον )、先行するすべての生成過程が目的を参照することの事例であると理解されなければならない。その場合、示唆される目的は、個々の動植物の「種」の保存(果実のため)や個体の生存(養分をとるため)である(B8:199a27-29)。

 そして、こうした目的論的連関の存在から(或る目的の為に働く)始動因 (η αιτια η τοιαυτη,199a29-30) の存在が主張される。その場合、目的論的連関の存在には二つの要件が含まれている (ει ... και ..., φανερον οτι ..., 199a26-29) 。一つは、前述の「種」の保存といった生成に統一的目的を与える目的論的連関であること、もう一つは、自然による目的論的連関であることである。後者、「自然による」という点が重要であるのは、先にも指摘したように、目的論的連関そのものは偶然によっても成立するからである。それを排除できるのは、先の(T)難問論駁でも述べられたように、自然による生成は恒常的であるという論点なのである。それゆえ、改めて確認すれば、始動因としての自然は、生成に統一的目的を与える目的論的連関があること(始動因と目的因との種的同一)、そして、恒常的目的論的連関があることから、その存在が主張されているのである。

 アリストテレスは、こうして(U1)で目的論的連関のあり方を述べ、(U2)でそうした連関を導く始動因の存在を主張した上で、(U3)自然に関する学説に自らの説を位置づけている(B8:199a30-32)。「自然」には、形相と質料という二義があるが、これは伝統的見解であった(B1-2)。アリストテレスは、自らの目的因を焦点とする自らの考察の中で、形相を目的因とする。しかし、同時に、質料を目的の為のもの (του τελους δε ενεκα ταλλα,199a32) として位置づけていると考えられる。一連の始動因としての自然については何ら触れられないけれども、学説上、質料に形相を与えるものとして想定できよう(cf.Γ2:202a9)。

 さて、(U)の部分はこうした仕方でアリストテレスの積極的主張といえる。次の(V)では、先に(T)で論駁した自然学者からの反論に応答していると考えられる。テキスト上で自然学者への応答であることが明示されている訳ではない。しかし、(V1)誤りの問題(199a33-b18)と(V2)偶然の問題(199b19-26) とに分節されるそれぞれの箇所で、先の自然学者の立場からの反論を想定することができる。そして、そうした想定によって、アリストテレスの一連の叙述を弁証(問答)論的な展開と考えることができるのである。(V3)思案の問題(199b26-33) では、自然学者に特有ではないけれども、反論が明示される。

 先ず、(V1)誤りの問題では、自然における誤りのあり方が解明される。自然における誤りとして「奇形( τα τερατα ) 」が挙げられるが、これは(T)でも言及されていたエンペドクレスの説(198b32)を踏まえたものであるのは明らかである。アリストテレスは、その説を批判的に検討し、自分自身の見方を提示している。こうした(V1)での問題設定は、エンペドクレスからのアリストテレスへの反論を次のような仕方で想定することで、よく理解できるものとなる。エンペドクレスは、生物の奇形という現象を持ち出し、その現象をよく説明できるのは、自分の必然論的自然原因説であり、アリストテレスの目的論的自然始動因説では説明されないのではないかと反論するのである。即ち、必然論的自然原因説では様々な形態のものが発生するけれども、「或る目的の為に」働く始動因、つまり、特定の形態の実現を目指す始動因(種子等)からは、奇形の発生しないのではないかと反論する訳である。アリストテレスはこうした自然学者の反論を批判し自らの立場を鮮明にしていると考えられる。

 この(V1)の議論は、自然は技術と類比に拠っているが、その類比の基盤は自然も技術もともに或る目的の為に働く始動因である点にある。技術における誤りとして、書記が正しく書かなかった、また医者が薬を正しく与えなかったといった事例が挙げられている。ここでの要点は、こうした技術の誤りが、いわば出鱈目なものではなく、「或る目的の為に」試みられてたが達成されなかった (ενεκα μεν τοις επιχειρειται αλλ'αποτυγχανεται ) ということである[31]。そして、「奇形」という自然による生成における誤りも、そうした「或る目的の為に働くもの (εκεινου του ενεκα του) (=始動因としての種子)」の誤りであるとされるのである[32]。つまり、目的論的自然始動因説においても、奇形という現象を処理することは可能なのである。

 それに対し、エンペドクレスの理論は次のように批判されるのである。「人の頭をした牛」が生じると想定されるのは、そもそも最初の組成において何らかの限定や目的への指向を持ちえない場合である。エンペドクレスの理論は、「或る目的(人間の生成)の為に」試みられてたが達成されなかったということではない。つまり、「目的の為に働く始源」は破滅されているのであり、つまり今の事例では、種子が破滅されているのである(199b5-7) 。というのも、成体は直ちに生じるのではなく、種子が先ず生じなければならないけれども、エンペドクレスの理論で、種子に応じるのは「不分化の最初のもの」であり(199b7-9) それは特定の種を生む特定の種子ではなく、特定の種を生むことについて偶然的な四元素の振る舞いに支配されるものでしかないからである(199b13-14,PA A1:640a19-25)[33]。そして、更に、植物にも「或る目的の為に」働く原因が内在するので、同様な批判が展開されるのである(199b9-13)。

 こうした批判において焦点となっている点は、すぐ後の箇所で一般的な仕方で述べられるように、エンペドクレスが、「或る目的の為に働く始動因」としての種子を認めないことにある。エンペドクレスの説明が描き出す自然による生成は、アリストテレスにとっては、自然による生成の問題ではないのである。何故なら、エンペドクレスにおいて、「或る目的の為に働く始動因」としての「自然」は、破壊されているからである。アリストテレスにとって、自然による生成変化とは、それ自体の内の或る始源から、連続的に変化して或る終点に達する場合をいうのであり、何んらかの妨害がなければ常に( αιει )同じものに向かうこととして理解されるのである(B8:199b14-18,cf.199b25-26) 。

 次の(V2)の偶然の問題の考察(199b19-26) は、目的論的連関は、偶然によってもまた生成するのではないか疑問から始まると想定される。こうした偶然による目的論的連関の生成は、(T)での自然学者の見解(目的論的自然始動因説への難問)に含まれるものであった (απο του αυτοματου συσταντα επιτηδειως, B8:198b30-31) 。しかし、アリストテレスはここで(T)での論駁をただ繰り返すだけではない。(T)では、自然学者の立場に立ってその見解に内在する困難を摘出した訳であるが、(V2)では、アリストテレスは自らの視点から批判が加えられているのである。アリストテレスは、目的論的連関が偶然によって成立しうること自体は認めている (γενοιτο αν και απο τυχης, B8:199b19-22) 。しかし、自然による生成の場合のように恒常的な目的論的連関であるとき、それは認められないのである。(T)の論点(198b36)と同様、偶然は恒常的な生成の原因とは決してなりえないからである(B8:199b24-25)。そこで、恒常的に目的論的連関が成立している場合、偶然によるのではないことを指摘する。この点は、(T)と同様である。しかし、(V2)でアリストテレスはそれに加え、自らの「偶然」理解に立ち (B5:196b23-24,197a12-15,32-35,B6:198a5-7) 、偶然は自然による生成において付帯的な始動因でしかないことを指摘するのである (η γαρ τυχη των κατα συμβεβηκος αιτιων, καθαπερ και προτερον ειπομεν, B8:199b22-24)[34]

 最後に(V3)で、思案の問題が扱われる。アリストテレスは、生成変化を始動するものが思案しない場合に、目的論的連関 (ενεκα του γιγνεσθαι) を形成しないと考えるのは見当外れ (ατοπον ) であると先ず指摘する(199b26-28)。恐らくは一般的通念として、生成を始動するものが思案するからこそ、目的論的連関をもった生成が可能であると考えられているのである。行為の場面において、目的論的連関を形成する始動因は、思案する者だからである (ο βουλευσας, B3:194b30,195a22)。

 さて、こうした見解は、(V1)(V2)のように(T)の自然学者の見解には現れない。しかし、自然学者の主張とこうした思案による目的論的連関成立の要求とは矛盾することではない。自然学者は、(V2)で見たように、偶然による目的論的連関の成立を主張する(B8:198b30-31)。しかし、自然による目的論的連関の成立において、「偶然による」とせざるをえなかったのは、彼の自然(物理的必然性)によって説明できなかったからである。自然によらない目的論的連関の成立が、自然(物理的必然性)によって説明されなくとも、「偶然による」という必要はない。つまり、自然学者は、自然によらない目的論的連関の成立において、思案によると主張しうるのである。

 それどころか、アリストテレスの挙げる論者同様、思案によること(行為)が、目的論的連関の成立の範型として捉えられているかも知れない。そうした了解は、自然が思案しない以上、自然は始動因として目的論的連関を形成するのではないという主張に通じる。こうした意味で、自然学者が目的論的自然始動因説に抵抗する要因となっていると考えられる。

 一般にいって、確かに、目的論的連関の成立にとって思案が必要であるという見解には根深いものがある。アリストテレスに限らず現在に到るまで、蜘蛛や蟻の活動がしばしば目的論的文脈で問題となるのも[35]、その活動の成果が複雑に構成されたものであり、そうした成果は予め十分に思案(計画)された上でなければ達成されないと考えられるからであろう。そこで、自然による生成について、目的論的連関を主張することは、思案を密輸入しているのであり、逆に(蜘蛛や蟻のようにその能力から)思案がないのであれば、目的論的連関を主張できないと考える訳である。

 さて、アリストテレスは、(U2)の議論で蜘蛛や蟻の活動が事例に挙げるとき、技術によるものも探求によるのでも思案によるのでもないことを指摘していた(199a22)。しかし、それが思案が必要でないということの論拠ではない。思案を持ち出すのは、場違い (ατοπον) なのである。この意味は、始動因としての自然と思案を対比することで明らかになる。アリストテレスが始動因としての自然の存在を主張した論拠(U2)を確認しておきたい。それは、(1) 始動因として目的を先取し(上述のように始動因と目的因との種的同一性を指す)一連の生成過程を導くこと、(2) 恒常的な目的論的連関を形成することであった。しかしながら、始動因としての思案は別の問題である。行為において、目的に到る過程で自分のなしうることを思案する (η δε βουλη περι των αυτω πρακτων, αι δε πραξεις αλλων ενεκα, EN Γ3:1112b32-33) 。ところで、思案がなされるのは、「常に同様な仕方ではないこと(B3:1112b3) 」「多くの場合そうであっても実際どうなるか不明なこと、確定されないこと(B3:1112b8-9)」についてなのである。つまり、そのときそのときで考慮すべき事柄があり、予め規定されているいわばマニュアルが効かない場合であるといってよいであろう。思案された結果は行為の起点となる。しかしながら、思案がこうした性格のものであれば、他方で、その思案された結果は、そのときには有効であるけれども、一般には通用しないということにならざるをえない。こうした意味での始動因を、始動因としての自然の考察の中に入れる訳にはいかないのである。始動因としての自然は、目的を先取する点において、いわば確定したマニュアルをもっているのであり、恒常的連関を形成する点において、そのマニュアルは常に有効なのである。

 ところで、アリストテレスは「技術は思案しない」と述べているが、この点については次章で検討する。ここでは、ただ、自然と技術の類比から、自然が思案しないから技術も思案しないのだと類推して主張した訳ではないことは予め明記しておきたい。

 以上で、前節までの(T)自然学者の主張とアリストテレスの批判、本節で(U)アリストテレスの主張、(V)自然学者の反論とアリストテレスの批判を確認した。こうした議論は、一連の一貫した目的論的自然始動因説の提示として理解できるものであり、決して断片的議論の集積ではない。

 (U)(V)について、残された問題を確認し、次章の考察に備えたい。それは、目的論的連関に関する自然と技術の類比の問題である。先ず、目的論的連関の構造は、(U)で基本的に主張されているのであるから、自然と技術の類比はそこでの主張に即して考察しなければならない。そして、技術からの類比による議論、つまり、(V1)技術が目的の達成を目指すという主張と(V3)技術は思案しないという主張は、それぞれ問題を含んでいる。そうした主張がなされるとき、技術がいかなるものとして理解されているか考察するとき、自然と技術の類比の中で問題となっている技術のあり方を明らかにできるはずである。



第5節 質料因としての自然

 アリストテレスは、前章の冒頭で示された考察の順序に従い、自然事象の必然性を論じている。前章冒頭では次のように述べられていた。

では〔第2巻7章での四原因の探求方式に従って〕、先ず〔8章〕、自然が「何かの為に」働く原因であるのは何故かを述べなければならない。その次に( επειτα ) 〔9章〕、必然性について、それが自然事象においていかなるあり方をするのか( πως εχει )〔を述べなければならない〕。というのも、すべての〔先行する自然学〕者は、〔自然事象についての「何故か」かをいう問いを〕こうした原因〔i.e.必然性〕に還元するからである。つまり、熱や冷や更にそうした各々〔i.e.乾湿〕は、自然本性的に( πεφυκε ) これこれ〔の性質をもつの〕であるからには、必然的にこれこれが存在し生成するのである〔というのである〕。(B8:198b10-14)

こうした計画を踏まえて、9章冒頭で、「必然性」が、自然事象の生成において、(a) 「仮定から」含まれる( υπαρχειν )のか、それとも、(b) 「端的に」含まれるのかを問うのである(B9:199b34-35)[36]。ここで注意すべきは、こうした問題設定での「必然性」は、「自然事象における必然性」といった一般的な意味ではなく、まさに前章冒頭での計画を踏まえ、四元の自然本性に由来して物質が或る性質をもつ必然性、「物理的必然性」に限定されているということである。つまり、問われているのは、自然事象の生成における必然性が、仮定からの必然性か、物理的な必然性かではない。そうではなく、物理的必然性が、自然事象の生成において、(a) 仮定から問題となるのか、それとも、(b) 端的に問題になるのかを問うているのである[37]。そして、本章で、「必然的に( εξ αναγκης inf., αναγκη inf., δειν inf., ουκ ανευ ) 」といわれる場合を除き[38]、「必然性( το αναγκαιον )」といわれるのは、すべてこうした物理的必然性であると考えてよい。

 さて、物理的必然性が、自然事象の生成において(b) 端的に問題になるとは、技術による生成の事例で次のように譬えられている。材料の物理的必然性が発現することによって、家の外壁( τοιχος )が必然的にできあがると考える場合である。こうした場合、「端的に」といわれるのは、物理的必然性が、自然(技術)による必然的(恒常的)生成を、「端的に」解明するからである。つまり、重いものは自然本性的に (πεφυκε ) 下に運ばれ、軽いものは自然本性的に上に運ばれる訳であるが、こうした物理的必然性の故に (διο) 石は重いという自然本性をもつものとして下に運ばれ家の土台となり、また生煉瓦は石より軽い故に (δια) 上に運ばれ、木が最も軽いので (γαρ) 頂上に運ばれると考えるのである(B9:200a1-5)。

 アリストテレスは、こうした見解をすぐさま否定し、反論を与えることはしない。しかし、それは、こうしたことが不可能であると即断されているからではなく、既に決着されているからである。こうした見解は、エンペドクレスの場合と異なり、家の外壁が適合すべき目的「家財の保全」を考察の射程に入れておらず、そのゆえ「偶然」の導入を避けて物理的必然性による生成を貫徹させているに見える。しかし、外壁はともかく特定の形態をもたなければならず、そのためには素材となる物体がしかるべく組み立てられなければならない。つまり、物体は、単なる上下運動ではなく、特定の仕方で運動 (ωδι κινησθαι) しなければならないのである (Metaph.Z9:1034a17) 。この特定の仕方の運動を導くのは、外壁の場合、技術という始動因である。これは、前章でアリストテレスが論定したことに他ならない。「『或る目的の為に』という働きがある限りで (εν οσοις το ενεκα του εστιν, B9:200a8)」自然事象の生成を考える場合、自然は始動因として「或る目的の為に」働き、特定の形態を質料に与えることで、必然的に(或いは恒常的に)生成させるのである。

 物理的必然性が、自然事象の生成において、「仮定から」問題となるか、それとも「端的に」問題となるかという問いは、「端的に」問題となる場合が否定されることで、「仮定から」であると結論される。考察の焦点は、物理的必然性が自然事象の生成において仮定から問題となるということの内実に移るのである。つまり、アリストテレス研究でのいわゆる「仮定からの必然性(hypothetical necessity)」の内実である。この表現は誤解を招きやすく適当であると思われないけれども、その内実を見定めるまで、この表現を用いることにしたい。

 「仮定からの必然性」は、或る目的(働き)があろうとするならば、必然的にこれこれがあるという仕方で導入される[39]。ここで、次の二点を確認したい。一つは生成に対して必然が問題となる方向である。「仮定からの必然性」は、自然学者のいう端的な仕方での物理的必然性と選言を構成した訳であるから、端的な物理的必然性と異なるのは当然であるけれども、アリストテレス自身の始動因の必然性(恒常性)の問題とも区別されなければならない。端的な仕方での物理的必然性にせよ、始動因の必然性にせよ、「必然的に何か(目的)が生成する」という仕方で、生成の時間方向と一致する必然性であるが、「仮定からの必然性」は、「目的が生成しようとするなら、必然的にしかじかである」と仕方で、生成の時間方向に逆行する必然性が問題となっているのである[40]。それゆえ、目的の生成はまだ現実化していないこととして、「或る目的(働き)があろうとするならば」と未来時制が用いられるのである。

 もう一点は、「仮定からの必然性」と数学の論証との類比であり、その意味は、必然性の方向の一方向性にある[41]。つまり、論証において、前提が成立するならば、必然的に結論が成立する。しかし、結論が成立するならば、必然的に前提が成立することはない。同様に、自然事象の生成において、目的が生成しようとするならば、先行するもの(素材)がなければならないのである(B9:200a15-22)。しかし、素材があれば、必然的に目的が生成するのでない(cf.B9:200a26-27) 。

 「仮定からの必然性」に定式に、目的の生成に未来時制が用いられていること、そして、数学の論証と類比されていることの二点を確認したのは、アリストテレスの四原因の探求方式における質料因の探求方式との照応を明確にするためである。それは次のようなものであった。

 もしTがあろうとするならば〔しかじかの質料がなければならない〕
  ちょうど、前提から結論が〔必然的に帰結するように〕
  ( ει μελλει τοδι εσεσθαι, ωσπερ εκ των προτασεων το συμπερασμα )

こうした照応が意味するのは、物理的必然性を「仮定からの必然性」として位置づけるという問題が、まさに質料因の探求に他ならないということである。それはまた、先行する自然学者の自然、即ち、物理的必然性を質料因として位置づけることである。ところで、こうした質料因の探求とは別に始動因が「何が目的を必然的に(端的にまたは多くの場合)生成させるか」という仕方で探求される以上、「仮定からの必然性」の問題で始動因の必然性を含む一般的な必然性の考察を想定することの不適切さが確認されよう[42]

 「仮定からの必然性」という表現は、確かに誤解を招きやすいが、その表現中の「必然性」が物理的必然性を意味していると考えれるならば誤解であり、質料因の問いに直結しない。物体は目的を参照することで物理的必然性をもつということではない。物体は特定の物理的必然性を元来 (πεφυκε) もっているのである。また、物体は目的を参照することで物理的必然性を発揮するということでもない[43]。「仮定からの必然性」という表現の「必然性」が意味するのは、目的の実現のためには、特定の物理的必然性が「必然的にある(必要である)」ということである。目的実現に必要である「特定の物理的必然性」を問うことは、また目的実現に必要である「特定の物理的必然性を元来もつ物体」を問うことである。つまり、質料因を問うことに他ならないのである。以後、誤解を避けるため、「仮定からの必然性」という表現を「仮定からの必要性」という表現に変える。

 「仮定からの必要性」の例として、もし鋸であろうなら、つまりその働きがあろうとするなら、必然的に鉄製でなければならないとされる(B9:200a10-13,cf.PA A1:639b26-27,GC B11:377b14-15)。鋸の目的・働きを、これこれの(例えば引くことでの)切り離しであるとしよう。そうであれば、もしこれこれの歯がついてなければ、そうした切り離しはないであろう。そして、もし鉄製でなければ、そうした歯はないであろう(B9:200b5-7)。つまり、鉄製であることは鋸の目的があるための必要条件(sine qua non)であり、その意味で、鋸の目的があるには鉄製であることが必然的(必要)なのである (B9:200a20-22,28-29, PA A1:642a7-8, cf.Metaph.Δ5:1015a20-22) 。

 ところで、もし更に、これこれの歯があるには、何故鉄製でなければならないかと問うとすれば、鉄が物理的必然性としてもつ性質、例えばしかじかの硬さ (cf.PA A1:642a10) や可塑性といったことが挙げられよう。これこれの歯があるには、こうした硬さ等の物理的必然性をもつ物体 (των αναγκαιαν εχοντων την φυσιν, B9:200a8-9, cf.PA A1:642a34-35, Γ2:663b22-23,APo.B11:94b37-95a1) で作られていなければならないのである[44]。こうして、物理的必然性が、「仮定からの必要性」であることが明確になる。鋸の働きがあるのに必要である「鉄製であること (σιδηρους)」とは、ただ「鉄で作られていること」ということではなく、「目的実現に必要となる特定の物理的必然性をもつ鉄で作られること」なのである。

 このことは別の仕方でも明らかにできる。鉄は、鋸の場合に問題となる硬度や可塑性には留まらず、重さや臭いや磁化性等多くの性質を物理的必然性によってもつ(cf.Δ9:217b19-20,Sens.5:443a18,de An.A2:405a20-21) 。しかし、鉄が物理的必然性としてもつ全ての性質が「仮定からの必要性」ではない。鉄は鉄として問題になっているのではなく、鋸の為の質料 (την υλη την ενεκα του, B9:200a25-26) として問題になっているのである。鋸の為に必要な性質が問題となるだけで、その他の性質は、鋸の働きに寄与しない付帯的な性質 (cf.B1:192b19-20) でしかない。つまり、「仮定からの必要性」とは、目的・働きがあろうとするなら、その必要条件となる限りの性質を物理的必然性としてもつ物がなければならないということなのである。こうして、物理的必然性は専ら質料の問題に位置づけられることになる(B9:200a15) 。物理的必然性とは、自然事象において、質料として語られるもの、また質料の運動変化に他ならないのである(B9:200a30-32,cf.200a6,9-10,27)[45]

 こうして、質料因が析出される。もとより、質料因は、四原因の一つであり、他の原因とは区別して探求され知らなければならない(B7:198a22-24,b5,cf.Metaph.H4:1044a32-34) 。それは、同じ質料である木から箱も寝台もできる場合とは異なり、鋸の作成に必要である性質を物理的必然性によってもたない羊毛や木に対しては、始動因でもどうすることもできないからである (ουδ'επι τη κινουση αιτια, Metaph. H4:1044a25-29) 。このようにして、アリストテレスは質料を、既に示唆されていたように、比例的な (κατ' αναλογιαν ) 、或る目的(形相)に対する特定の質料として (A7:191a7-8,B2:194b8-9,194a24,28,b13,cf.PA A1:639b26-27)、自然を考察する自然学に導入するのである。

 ところで、目的因と質料因の連関は、生成の順序に即した恒常性という意味での必然性(始動因の必然性)とは異なり、論証での前提と結論の関係に比べうるような必然性である(B7:198b7-8,B9:200a15-30) 。論証の必然性が諸項の自体的連関に支えられたものであってみれば(APo.A4:73b16-18,A6:74b6-7) 、質料が目的と自体的連関においてあることを期待できよう。アリストテレスは、最後に、このことを示唆している。物理的必然性は質料の内にあり、目的は定義の内にあると述べていたが(B9:200a14-15,30-32)、「おそらくは、物理的必然性は定義の内にもある。(中略)というのも、定義の内にも定義の質料としての或る部分があるからである。」と、鋸の働きから鉄製であることにいたる先述の連関を例示しながら述べるのである(B9:200b4-8)。これは、自然学の定義が、「シモン(鼻〔質料〕における凹み〔形相〕)」の定義のようにあるべきだという仕方で既に要請されていたことと同じ事柄である(B2:194a5-7,13-14)。しかし、その場合、要請されるだけで、定義への質料の導入のためのしかるべき方法をもっていなかった。アリストテレスがその方法を「仮定からの必然性」に求めていることは確かであろう。質料が定義に含まれることで、その質料は初めて定義対象にとって自体的なものとして、厳密に学問の対象となるのである。

 以上で、アリストテレスの目的論的自然学の成立場面を確認することができた。自然学は、自然による生成の四原因を捉えることにおいて成立するが、自然の形相=目的を仮定したとき、始動因と質料因は、それへの必然的連関のなかで捉えられたのである。こうした探求方法に従い、自然学のそれぞれの領域で、四原因が特定されるのである。

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