『自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に関する研究』 (1999)

第1章 アリストテレスの自然学の構想

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notes

bibliography

 



第1節 自然の探求
第2節 『分析論後書』の学問構想            
第3節 『自然学』の学問構想             
第4節 自然学の方法論                
第5節 目的論的自然学の構想

 

 自然科学は、古代ギリシアの「自然の探求」に由来するといわれる。その意味を、ソクラテスとプラトンを継承しつつ、アリストテレスが確定した自然学の学問論的方法論に求たい。アリストテレスは、自然を四原因のそれぞれとして把握し、四原因を定義として定式化するという方法論を与えるとともに、こうした定義を起点とし自然諸事象を説明(論証)するという学問構想を与えた。それは自然科学における自然法則としての自然探求と、自然法則の理論的体系化の営みに照応するものである(第1節)。

 アリストテレスは、『分析論後書』において、論証による体系的知識として学問を構想している。その要点は、論証を通じて、事象を必然的であると知り、事象と原因の連関を知ることにある。この二つは同時に成立すべきことであり、論証を通じて、事象と原因の必然的連関を知るというが要求されているのである(第2節)。

 アリストテレスの『自然学』は体系的知識として自然学を示唆することで始まる。しかし、その内実はすぐには与えられない(第3節)。自然学の方法論は、自然学は四原因として把握しなければならないとして与える四原因の探求方式に求められる。つまり、目的因(=形相因)の把握を起点とし、それとの必然的連関をもつものとして、始動因と質料因は探求されるのである。この「必然的連関」は『分析論後書』の学問構想を背景にしてのみ理解されうることである(第4節)。

 『分析論後書』の学問構想は必然性を要求するが、自然事象は必然的ではない。アリストテレスが自然事象について与える定義や論証を自然法則として捉え、自然法則を確定する場面、そして自然法則のもとで個々の自然事象を知る場面において、必然性の成立を概観する(第5節)。

第1節 自然の探求

 「自然の探求( περι φυσεως ιστορια ) 」と呼ばれる活動は、紀元前六世紀のミレトス派に始まる[1]。そして、この活動こそが、自然科学と呼ばれて今日に到る活動の始まりであると考えられている。しかし、何故、ギリシア(イオニア植民地ミレトス)に始まるとされるのであろうか。一方で、既にエジプトやバビロニアでは天文現象の観測や予測を行っていた訳であるし、他方で、既にギリシア内でも自然現象に関する言説(神話)は存在していたからである。こうした問題に対する回答は一様ではないが、ここではロイドによる方法論的観点からの特徴づけを取り上げたい[2]

 ロイドは、(1) 自然の発見と(2) 批判的論争の実践を挙げる。(1) 自然の発見とは、自然現象が、きまぐれな力の産物ではなく、確定可能な因果連鎖に支配される規則的現象であるという認識である[3]。それゆえ、自然は、個々の現象としてではなく、一般的に探求されるのである。(2) 批判的論争の実践とは、文字通り、相互の見解の批判的検討である。こうした特徴づけは、自然の探求の「神話からの脱却」という場合に、何が問題であるかを明示している。神話が語るのは、多くの場合、(1')特定の時間と場所で起こる自然現象(地震、雷鳴)についてなのである。また、それぞれの神話は、(2')自然界について相互に異なることを語っても何ら構わないのである。

 確かに、こうした方法論的特徴づけによって、自然科学の源をギリシアに求めることが正当化されよう。しかし、ギリシア世界において、こうした方法論は更に明確化されており、その成果は自然科学の方法論の中にも保持されている。(1)(2)の特徴づけは、アリストテレスにおいて、それぞれ(a) 自然現象の観察から自然法則を捉え、それを通じて個々の自然現象を説明(予測)するということ、(b) 自然の諸法則を理論として体系化することに明確化されていると考えられる。そして、その明確化の経緯においては、ソクラテス、プラトンからの継承を指摘しておかなければならない。

 ロイドの特徴づけは、(1) 事象を一般的に探求するといい、(2) 批判的に検討するといい、ともに、ソクラテスに相応しいものである。もとより、ソクラテスは自然を離れ倫理的な事柄に向かった(Metaph.A6:987b1-2,cf.PA A1:642a28-31)。しかし、方法論の深化あるいは徹底化は、ソクラテスそしてプラトンに帰さねばならない。アリストテレスの自然の探求を考えていく場合に、彼の出身地からイオニア自然学者の系譜に位置づけるという見方が可能であるけれども、アカデメイアに学んだ点でソクラテス・プラトンの系譜にあることを外すことはできない。アリストテレスは、プラトンとは対比されるべき経験論者であるから、経験的事象である自然事象に向かったという見方はあまりに素朴すぎる。アリストテレスは、ソクラテス・プラトンが徹底化した方法論的態度によって、先行する自然学者の見解を吟味し、自然の探求に向かったのである。こうした継承の中で、アリストテレスは(1)(2)を(a)(b)として明確化したと考えることができるであろう。

 (1) 自然現象を一般的に探求しようとする試みが、(a) 自然法則の把握へと方法論上明確にされるという場合、アリストテレスにおいて、自然法則に当たるものは、定義或いは論証である。それらは、個々の自然現象から一般化して捉えられたものであり、それらによって個々の自然現象を説明する点で、自然法則に概念上対応する[4]。しかしながら、自然現象の一般化がこのような定義や論証によってなされることは決して自明ではなく、方法論的吟味を要したのである。

 アリストテレスが自然事象を一般的に捉えるのは、原因の連関においてであり、それを定義や論証において定式化する。そして、知識(学問)は定義や論証を通じて成立するのである。ところで、アリストテレスは、事柄を一般的に定義することを最初にした者としてソクラテスを挙げ(Metaph.M4: 1078b17-19, cf.A1: 987b2-4)、この点に関し、先行する自然学者はわずかに触れただけだったと証言する(Metaph.M4:1078b19-21,PA A1:642a26-28)。先行する自然学者は自然事象を一般的に捉えてなかったのである。他方、アリストテレスが自然事象を一般的に捉えるのは原因連関においてである訳だが、その原因概念はプラトンの理論を背景としている(Pl.Phd.96A-99D,Pl.Ti.47E-48E,cf.46C-D) [5]。そして、原因の連関を、定義や論証において定式化し、定義や論証を通じて知識(学問)が成立するという。知識を成立させるという点において、とりわけ論証は、プラトンの「原因の思考 ( αιτιας λογισμος, Pl.Men. 98A3-4) 」を指導理念としていたと推測される。論証は「原因を与える推論( του διοτι ο συλλογισμος, APo.A13:78b3, A14:79a22)」とも呼ばれるのである。アリストテレスの自然事象を一般的に把握する方法は、こうしたソクラテス、プラトンの背景のもとでのみ成立したのである。

 (2) 批判的な検討ということが、アリストテレスにおいて、(b) 理論の体系化という仕方で明確化されることには、次のような経緯を考えられる。或る人の或る事象についての見解(信念)が批判的に検討される場合、その見解(信念)が矛盾を含むか否かが先ず問題とされる。ところで、その人が或る命題(A)を認めた時、その命題と直接矛盾する命題(¬A)を認めることはないとしても、矛盾する命題を帰結するような別の(諸)命題(B)を認めることはあり得ることである(cf.APo.A2:72b1-3)。そして、これはソクラテスの論駁(エレンコス)が必要とされる事態である。信念は整合的でなければならない。これは理論の整合性の問題とも本来同じ問題である。つまり、学問( επιστημη )とは、(本の中にある)単なる理論ではなく、本来的に我々が知るということ( επιστασθαι )なのである。学問が体系的理論として整備されるということは、それを知る我々の信念( πιστευειν ) もまた体系的整備されていることを意味するのである(cf.A2:72a25-b4)[6]

 しかし信念・理論の整合性だけでは充分ではない[7]。信念・理論内の諸命題は、循環論法によって正当化されない(真とされない)からである(cf. APo.A3: 72b25-73a20) 。信念・理論には、他の命題を通じて正当化されるのではない特権的命題、つまり原理があるのである(cf. APo.A3: 72b18-25)[8]。これが、知識の成立という点における公理論的体系化の意味であり、以後、ユークリッド『原論』を範型とする学問のあり方を定めたのである。

 さて、(a) 自然法則の把握といい、(b) 理論の体系化といい、自然科学の方法論の核心的部分として今日も保持されており、こうした方法論的明確化に貢献した者として、アリストテレスの考察を検討したい(本論の多くは、個々のいわば自然法則に関わるけれども、常に(b) が背景にあることを明記しておきたい)。しかし、本論は、自然科学の方法論に関する今日的了解を前提し、それをアリストテレスの論点に探るといった単なる「先祖探し」ではない。むしろ、方法論が本来担っていた役割や意味を、アリストテレスの方法論の確立に探りたいのである。それは今日的了解に再考を迫ることにもなるはずである。自然科学の方法論という場合、科学哲学という部門の特殊問題と考えられる傾向があるけれども、自然事象についての知識の成立というより一般的問題として考えなければならない[9]。この点に関し、少なくともニュートン『プリンキピア』の成立に前後する時代まではそうであったはずである[10]。アリストテレスにおいて、知識の成立が一般的に問われた上で、自然事象の知識が問われるのであり、初めから知識の理論(認識論)と科学の理論(科学論)という具合に分離されてはいないのである。

第2節 『分析論後書』の学問構想

 アリストテレスの学問構想は、次のような仕方でまとめられる。「或る事象を知っている( επιστασθαι )」ということは、

    (i) その事象の原因を認知している( γινωσκειν )
    (ii) その事象は必然的であると認知している

という条件のもとで捉えられる(A2:71b9-16)。そして、その上で、「我々は、論証を通じてもまた知っていると主張する( φαμεν δε και δι' αποδειξεως ειδεναι )」(A2:71b17)とされる。もちろん、論証が知のすべてをおおいつくす訳ではない。論証はすべての事象について成立するのではなく、論証不能な原理がある(A3)。しかし、論証される事象について、「知っているということ」は、「論証をもつこと( το εχειν αποδειξιν )」(A2:71b28-29,72a25-26,A4:73a21-23,B3:90b9-10,21-22) を意味するのである。それゆえ、条件(i)(ii) に即していえば、

    (i') 論証を通じて、その事象の原因を認知している
    (ii') 論証を通じて、その事象は必然的であると認知している

ということが成立していなければならない。

 アリストテレスにおいて、論証( αποδειξις ) とは「知識成立に関わる( επιστημονικον ) 」推論、つまり「それをもつことでそれに即し( καθ'ον τω εχειν αυτον ) 」知っているということが成立する推論であり、それに尽きる (A2: 71b17-19)。推論とは、妥当な論理形式をもつ議論として[11]、弁証論の中でも問題となる一般概念であり[12]、そうした一般概念に対し「知識を成立させる( ποιειν επιστημην )」ということが論証を規定する種差となっているのである(A2:71b23-25)[13]。別の著作で「教示的議論( διδασκαλοι <λογοι>, SE 2:165b1-3) 」と呼ばれるのも、論証のことである。

 論証を通じて、(i) 原因の認知、(ii)必然性の認知が、いかに成立するか見ておきたい。先ず(ii)必然性の認知について確認したい。論証において必然性の内実を担うのは、命題の主語項と述語項との「自体的 (καθ'αυτο)」と呼ばれる連関である(A4:73b16-18,A6:74b5-11)。自体的連関とは、次のような項と項との定義的連関である(A4:73a34-b5,16-18, A6:74b7-10, A22:84a13-14) 。つまり、「AはBである」という命題の主語と述語が、(1) Aの定義にBが含まれる、或いは(2) Bの定義にAが含まれるという仕方で定義によって連関している場合を指す。論証を通じて、前提の諸項の自体的連関によって、結論の諸項の自体的連関が確保される(cf.A6:75a29-31)。二つの前提「AはBである」「BはCである」が共に自体的である場合、結論「AはCである」の自体性を保証するのである。このことが、論証を通じて、結論を必然的であると認知するということである(APo.A4:73a21-24) 。

 他方(i) 原因の認知であるが、原因の認識とは、正確には、「事象の原因を、その事象の原因であると認知すること (την τ'αιτιαν οιωμεθα γινωσκειν δι'ην το πραγμα εστιν, οτι εκεινου αιτια εστι, A2:71b10-12)」である (A2:71b10-12) 。つまり事象と原因との連関が問われるのである。それは論証において次のように形式化されていく。事象が命題「AはCである( οτι ) 」で表わされるとする。「何故AはCであるか ( διοτι ) 」、つまり事象の原因を認知するとは、原因(B)を通じてその事象「AはCである」を認知することであるが(A6:75a35)、このことが、原因を中項Bとし、それを通じて「AはCである」という事象を認識するという仕方で、論証として提示されるのであるAPo.B11) 。つまり、結論「AはCである」が、前提「AはBである」「BはCである」において中項Bと連関されることで、論証を通じて、事象「AはCである」の原因Bが認知されるのである。

 ところで、例えば (i)必然性の認知は数学の問題であり、(ii)原因の認知は自然学の問題であるといった仕方で、(i)(ii) は別々の問題ではない。ともに成立しなければならないのである( τε ... και, B2:71b10-12)。それゆえ、(ii)原因の認知において、(i)必然性の認知が問われているのである。このことは、原因と事象とが、自体的連関にあることを要求している(B16:98b22-23,cf.B8:93b12,B11:94b19-20) 。つまり、原因と事象とは定義的連関になければならない。確かに、事象の定義は、そもそも事象の原因によって定式化される(Metaph.H4:1044b15, APo.B10:93b39) 。しかし、問題は解消されない。つまり、原因を探求し定義を確定する場面と、定義が確定された上で事象の原因を認知する場面を区別して考えなければならないのである。『自然学』の方法論の展開を見て、再びこの考察に戻りたい(第5節)。


第3節 『自然学』の学問構想

 アリストテレスが、『分析論後書』の学問構想に照らして、自然学を展開しようと意図していることは、『自然学』冒頭の叙述に示唆されている(A1:184a10-16)。

すべての「方法論をそなえた学問( μεθοδος ) 」に関して[14]、原理・原因・構成要 素がある〔=規定されている〕〔事象を〕知ること( το ειδεναι και το επιστασθαι )が成立するのは、それら〔原理・原因・構成要素〕を認知することによって( εκ ) である[15]。というのも、第一の原因、第一の原理を、構成 要 素にいたるまで、認知する場合に、それぞれの事象を知っている( γιγνωσκειν )と思うからである。そうである以上、自然についての知識(学問)( η περι φυσεως επιστημη )にあってもまた 、先ず原理に関わる事象を規定すること( διορισασθαι ) を試みなければならない。

ここで、自然学が第一原理にもとづく体系的知識として構想されていることを読み取れる。そして、前節の (i)原因の認知に照応して、事象を知るということは、原因(原理・構成要素)を認知することである点が確認され、原因(原理・構成要素)を規定しなければならないとされる。ここでは、前節の(ii)必然性の認知は問題とされてないけれども、自然学において必然性は問題とならないと即断することはできない。 (i)原因の認知は、(ii)必然性の認知を同時に充たさなければならないのである。示唆される体系的知識には、必然性の問題が潜在しているということもできるであろう。実際、後に見るように(次節)、原因の探求において、必然性の問題が方法論的に明示されることになるのである。

 さて、『自然学』はこうして原理の規定に向かう訳であるが、第1巻は「自然についての知識」に限定されない仕方で、先行自然学者たちの原理に関する見解を検討することに当てられる。自然という限定が現れるのは、第2巻からと見てよい。第2巻では先ず、自然( η φυσις ) とは「内在する動の始源」であるという自然の基本的な理解が述べられる。「自然があること」は明らかであるとし、「自然とは何であるか」について、これまでの見解を提示しそれを吟味することになる。自然は質料であるという説と、形相であるという説であり、アリストテレスは形相説に優位性を認める(B1)。しかしながら、自然学 ( η φυσικη ) は質料をも探求しなければならないことが確認される。つまり、一方で、数学と対比される中で、自然学が形相と共に質料も扱わなければならないことが、また他方で、技術と類比する中で、形相(目的)と質料(手段)とのそれぞれを別の学問が扱うのでなく同じ学問が扱うことが、述べられるのである(B2)。

 ところで次に、原因について考察され、原因が四つの仕方であり、またそれだけしかないことが論じられる(B3-6)。この一連の原因論は、確かに、その考察の最初に明示されるように、自然による生成変化を知るには、その原因を知らなければならないという点からなされている(B3:194b17-23)。つまり、『自然学』冒頭の「自然についての知識」の成立に要する「原因の認知」を求めている。また、自然が原因の一例として挙げられている(B4:196a30-31,B5:196b22,B6:198a1-13)。しかし、原因論(B3-6)は、自然学という場合に限られない一般的考察にとどまる。それは、四原因の定義的部分(B3:194b23-195b21)がほぼそのまま『形而上学』Δ巻哲学辞典の「原因」の項目(Δ2)となっており、またその考察の中で「自然」はその派生語を含めほとんど用いられないことから伺われることである[16]

 こうした原因の考察(B3-6)を終えると、自然学者は、四つの仕方で原因を知らなければならないとし、四原因説の成果を振り返る(B7)。ここで、アリストテレスの視点は、自然学へと再び限定される。つまり、「自然とは何であるか」の先行する見解として検討され、自然学が扱うべきとされていた形相と質料(B1-2)が、それらを含む四原因として問われることになるのである。


第4節 自然学の方法論

 アリストテレスは原因論で一般的に考察した結果を振り返り(B7:198a14-21)、次のように述べる(B7:198a22-24)。

さて、原因は四つであるから、そのすべてについて知ることが自然学者 ( φυσικος ) の課題であり、自然学にふさわしい仕方で( φυσικως ) 、「何故か?」という問いをこれらすべて─質料因・形相因・始動因・目的因──に定型化(還元)して( αναγειν ) 答えるべきである。

自然学者は、自然事象について、四原因のすべてを探究しなければならない。ここで名指される自然学者は、もとより『自然学』で既に批判検討された「先行する自然学者」ではありえない。アリストテレスは、ここで彼の構想する自然学の研究者を名指しているのである。その意味で、彼の自然学の成立を告げているといってもよい[17]

 アリストテレスは自らの探究方法を定式化するのに先立ち、先行する自然学者の探究方法( σκοπουσι, pl.3.)を批判しているので、簡単に見ておきたい。この批判の要点は、先行する自然学者が目的因を探究しない点にある(B7:198a31-33)。つまり、形相因と目的因とが一致するので( ωστε )、目的因を捉え損ね、先行する自然学者は「何故か?」の問いを質料因・形相因・始動因としてだけ定型化して答えた(B7:198a31-33)。そのことは彼らの立てた次のような探究方法の定式に見てとれるとされる(B7:198a33-35)。

    何かが何の後に生じるか ( τι μετα τι γιγνεται )〔形相因・質料因〕
    何が最初に作用したか ( τι πρωτον εποιησεν ) 〔始動因〕
    何が作用を受けたか ( τι επαθεν ) 〔質料因〕

ところで、形相因と目的因が一致することは、アリストテレスの方法論上重要な点に関わるので、特に確認しておきたい。三原因の一致である。つまり、形相因と目的因とは同一( εν )であり、それら二原因と始動因とは種において同じ( τω ειδει ταυτο )であるとされる。「人間は人間を生む」と例示されるが、成人Aが生んだ子供Bは成人Bを目指して成長すると分析すれば、成人Aが始動因であり、成人Bが目的因・形相因に当たる。AとBは数的には同一ではないが、「種」として一致するのである。ところで、こうした仕方での三原因の一致は、常に成り立つ訳ではなく多くの場合にいえることである。「多くの場合」とは、始動因が「動きながら動かすもの(変化しながら変化させるもの)」の場合であり(B7:198a24-27)、自然学の対象になる場合である。

 こうした目的因を見逃しているという批判を経て、アリストテレス自身は目的因を焦点とする四原因の探究方法を定式化している。そして、ここに、先に(第3節)指摘した必然性の問題が現れるのである。つまり、自然は、何かの為に働く( ενεκα του ) ので目的因をも知らなければならないとした上で(B7:198b4-5)、目的因をいわば方法論的定点と仮定し、四つの原因を探求するための問いが必然性を含む仕方で提示するのである。いま目的となる生成の終点をTとすれば、次のように定式化できよう(198b5-9)[18]

始動因  これこれから必然的に終点T〔が生成する〕(これこれから端的に〔必然的に〕或いは多くの場合に)
οτι εκ τουδε αναγκη τοδε ( το δε εκ τουδε η απλως η επι το πολυ )

質料因  終点Tがあろうとするならば〔何が必然的にあるか〕(前提から結論が〔必然的に導かれる〕ように)
ει μελλει τοδι εσεσθαι, ωσπερ εκ των προτασεων το συμπερασμα

形相因  終点Tが本質であった
οτι τουτ'ην το τι ην ειναι

目的因  何故そのようにTを終点とするのがよいのか──端的によいということではなく、それぞれのあり様にとってよいのか
διοτι βελτιον ουτως ─ ουκ απλως αλλα το προς την εκαστου ουσιαν

つまり、終点Tが定まれば、他の原因はそれに基づいて探求されることになるのである。ただし、終点Tについては、次のことに付け加えておかなければならない。目的因としての終点( τελος ) は、テキスト上既に指摘されていたことであるが、ここで目的因の問いにおいても述べられるように、ただ生成の末端( εσχατον ) に位置するということだけではなく、善いものとして終点に位置しているのである(B2:194a32-33,B3:195a23-25) 。

 さて、ここで始動因の探求と(明示的ではないにせよ)質料因の探求において、必然性が問題となっているのである。これは何か唐突な印象を与える。しかし、例えば、後続する議論(B9)で必然性が問題になるからであるといった解説では順序が逆であり、その議論の背景となる先行自然学者が原因を必然性に還元したこと(B8:198b12) とも直接関係しない。むしろ、ここでの必然性は、アリストテレスの学問構想という独自の視点から導入されていると考えるべきであろう。

 つまり、『分析論後書』において確認したように(第2節)、アリストテレスは、「或る事象を知っている」ということの成立を、その事象の(i) 原因の認知と(ii)必然性の認知において捉えた。学問(知識)が成立するのも、それに即してのことであった(APo.A2:71b9-12,17) 。『自然学』において、既に、自然による生成変化を知るには、(i) その原因を認知しなければならないとされた(B3:194b17-20,B7:198a22,cf.A1:184a15-16)。しかし、他方、そうした原因の認知が、自然学という学問として成立するためには、(ii)必然性の認知を要するのである。

 それは四原因説の問題の中で次のように考えられるであろう。原因は四つの仕方であり、自然学者はそのすべての仕方で認知しなければならないとする(B7:198a22-24,198b5)。ところで、四原因を認知するということには、知の対象となる事象が四原因によって分節化し規定するということが含まれるのである。そこで、もしその四つの原因が相互に何の関連もないとしたら、知の対象となる事象は(ii)必然性の認知の条件を充たしえず、そこに学問の成立を認めえないのである。しかし、その場合、始動因や質料因が予め何らか目的因とは独立に認知され、その後に目的因との必然的連関が認知されるといったことではない。その探求方式に示されるように、始動因や質料因は目的因との必然的な連関のもとで初めて認知されるのである。つまり、ここで目的因を定点としそれに必然的に連関するものとして始動因と質料因を問うたのは、(ii)必然性の問題を含みこんだ仕方で(i) 原因を問うているからである。自然学は、学問として、必然的な連関をなす諸原因を定義として定式化するのである。

 こうして導入された始動因と質料因の二つの探究方法の定式は、後続の議論(B8-9)を支配することになるのである (cf. λεκτεον δη, B8 init.,198b10) [19]


第5節 目的論的自然学の構想

 自然学は自然事象の諸原因を探求するが(Ph.B7:198a22-24) 、それら諸原因は定義や論証の内において定式化される(APo.B8:93b7-12,Metaph.H4:1044b9-15)。こうして、アリストテレスにとって、自然学は学問として成立するである。ところで、定義や論証において学問を構想することは、数学において当時整備されつつあった公理論的体系化を範型とした学問構想であることは、アリストテレスの著作から明らかである[20]。アリストテレスにとって、学問(知識)が必然性に関わることは、最も基本的な事柄である。その場合、定義や論証は次のように必然性を保証するのである。つまり、命題の諸項が、論証を通じて、(自体的連関と呼ばれる)定義に基づく関係をもつことを示すことによって、その命題の必然性が確保されるのである(APo.A4:73b16-18,A6:74b6-7) 。しかしながら、自然事象に関するこうした必然的な知識は可能であるか当然問われなければならない。

 我々が観察する自然事象は、数学のような常に一定の仕方であるという性質を示さないということを問題とすることができる。自然事象が示すのは、「多くの場合」一定の仕方である(生起する)ということに留まる。アリストテレスは、確かに、学の対象として「常に或いは多くの場合の事象」も認めている(APo.A30:87b21-22)。しかし、自然事象についてはそうした性質をもつことで既に学問の成立が保証されていると考えることはできない。

 「自然法則」という概念を使えば、(1) 自然事象の観察から自然法則を確立する過程と、(2) 自然法則から自然事象のあり方を説明する過程を区別して問題とすることができる。先ず、(2) について見ておきたい。ここでは、自然法則による自然事象の説明を、アリストテレスの事例によらず、(論理学の初等教本に頻出する)「ソクラテスは死ぬ」を結論とする事例でアリストテレスの考察の概要が見ておきたい。自然法則「人間は死ぬ」と初期条件「ソクラテスは人間である」から、「ソクラテスは死ぬ」は説明される。けれども、こうした説明は満足しうる説明ではないと考えられる場合がある。何故、他の誰でもなく当のソクラテスが死ぬのかということが明らかにされないからである。そして、前提にどれほど精緻な条件を加えようとも、こうした不満は残るであろう。しかしながら、もとより、この事例はそうした説明を意図するものではない。「ソクラテスは死ぬ」とは、ソクラテスは人間である限り、死ぬということに尽きる。

 さて、指定される前提のもとで「ソクラテスは死ぬ」のは必然的である。しかし、そうした論理的必然性ではなく、「ソクラテスは死ぬ」こと自体を必然的であると考えることもできる。つまり、自然法則「人間は死ぬ」が必然的である場合である。「ソクラテスは死ぬ」は、自然法則の一事例である限りで必然的である。個々の自然事象は、確かに、必然的な性質をもつものではない。しかし、学問の成立に求められる必然性は、個々の事象がそれ自体必然的であることを要求するものではない。個々の自然事象を知るということにおいて、必然性を要求するのである。この場合、もし、或る自然事象をその自然事象固有に、他の(同様な)いかなる自然事象とも異なる仕方で知られ(説明され)なければならないとすれば(「ソクラテスをソクラテスとして」のように)、必然性はない。しかし、自然法則に包摂される限りで問題とする場合(「ソクラテスを人間として」のように」)、個々の自然事象を知るということにおいて、必然性は成立するのである。アリストテレスの見解はこの点に求められるといってよい[21]

 他方、(1) 自然事象から自然法則を確定する過程の問題がある。この場合、個々の自然事象の連関を観察して、恒常的連関を帰納し、それを自然法則に定式化するという見方が多くの場合とられる。しかし、自然事象の恒常的連関はもとより必然性をみたすものではなく、こうした見方から自然法則の必然性は確保できないのである。それに対し、アリストテレスの場合、自然法則は、それを確定する段階において既に必然性を確保するべきものとして探求されているといってもよい。彼の自然法則の内実は原因結果の連関である。しかし、原因結果の連関といっても、個々の自然事象の連関にあるものではない。先ず結果となる事象を一般的に把握し、その事象との必然的連関を保証する枠組みにおいて、原因が探求されるのである。先に第4節で見た四原因の探求方式はそのことを示している。つまり、目的因において自然事象を一般的に把握し、そうした事象を必然化するものとして始動因が、またそうした事象の成立に(必要である意味で)必然的な質料因が探求されるのである[22]。この場合、目的因と他の二原因(始動因・質料因)は、いわば概念的連関という必然的枠組みにおいて探求されるのである。こうして探求された諸原因が、自然法則に、つまりアリストテレスにおいては定義や論証に、定式化されるのである[23]

 その内実は本論において詳述するけれども、より具体的な仕方で予め素描しておきたい。自然事象の生成変化が、或る事象(A)から或る事象(B)へと、常に或いは多くの場合に(以下「恒常的に」と略記する)観察されたとする。「歯(B)が生える」という自然事象を例としたい。さて、原因を問うには、先ず結果(原因づけられる事象)Bがしかるべき仕方で捉えなければならない(cf.PA A1:639b8-10,640a13-15) 。アリストテレスは、生成したものBの機能を目的因とし(PA A5:645b15-16) 、先ず目的因を把握しなければならないとする(PA A1:639b11-19, cf.Ph.B7:198b4-9)。それは「歯(B)が生成した」ということを「歯(B)が機能(食物を咀嚼)している」ことで捉えることである。生成結果を目的因(機能)として捉えることは、とりわけ生物の様々な活動(生命現象)について至極当然のことである。

 しかし他方、「歯(B)が生成した」とき、歯は、しかるべき大きさ、形、鋭さ、硬さ等の「形態( σχημα ) 」をもっている[24]。こうした形態は、生成を目的(機能)において捉えず、生成を質料的(物理的)に理解する場合でも把握可能である。しかし、アリストテレスはこうした形態を、目的因(機能)を参照する仕方で捉えなければならないとする (cf. Ph.B9:199b35-200a7)。つまり、目的因(機能)に適合する形態として把握しなければならないのである。これは、目的因(機能)を先ず把握することから当然帰結することである。機能を果たすのに必要である限りで、形態は問われるからである(PA A1:640b33-641a5)。そして、こうした目的因に適合する限りでの形態は、目的因と等しいとされる形相因と考えてもよいであろう[25]

 さて、こうして先ず結果(原因づけられる事象)が把握され、始動因が探求される訳である。しかし、こうした原因の探求は、AからBへの恒常的生成変化の事例からAを帰納的に探り当てるという探求とは区別されなければならない。始動因は、目的因・形相因と「種(形相)」として同一である(Ph.B7:198a26)。結果(原因づけられる事象)Bを目的因(機能)において捉えた場合、その形相(機能に適合する形態)を授与するものが始動因なのである(cf. ειδος δε αει οιεται τι το κινουν ─ ητοι τοδε η τοιονδε η τοσονδε, Ph.Γ2:202a9)[26]。つまり、始動因の探求はこうした概念的な枠組みの中でなされなければならないのである。

 それは人工物の例でいえば、家を「家財の保護」という目的において捉えた上で、その目的に適合する形態を与える「家の始動因」が、「大工」として、より厳密には「家を製作できるもの ( το οικοδομικον Ph.B5:196b26) 」として捉えられることに示されるであろう。こうした枠組みの中で、始動因は探求され特定されることになるのである。つまり家の原因となる「大工」とはいかなるものであるかが探求されるのである。こうした概念的枠組みをもたない探求とは、次のような探求である。つまり、Aが家を建てているのを観察し、Aを「色の白いもの」と捉える場合である。「白いもの」は、家を建てているAに付帯している限りで原因とされるだけで、端的には原因ではない(Ph.B5:197a13-14) 。つまり、Aに付帯する限りで実際に家を作るのであるが、Aから離れて家を作ることはないのである。アリストテレスは、概念的枠組みの中で捉えられた「大工(家を製作できる者)」を自体的原因と呼び、「色の白いもの」を付帯的原因だという (Ph.B5:196b26-27)。付帯的原因は「偶然」と呼ばれるべきものである(Ph.B5:196b23-24,197a12-15,32-35,B6:198a5-7)。

 個々の事象の連関の恒常的連関として原因連関を捉える試みは、厳密にいえばアリストテレスの付帯的原因から原因を探る試みといえるであろう。何故なら、個々の事象は多様に(「大工」「笛吹き」「色白」…)記述されうるからである。何らかの概念的枠組みなしにを原因を探る試みは不可能であり、可能であるとするなら既に概念的枠組みを前提しているはずである。

 さて、こうした始動因と目的因との連関は、概念的枠組みの中で、或る種の必然性を示している。「家を製作できるもの」が家の原因であるのは、いわば分析的に必然だからである。確かに、個々の自然事象連関において、必然性はない。しかし、このように探求される始動因は、何らかの妨害さえなければ、自然(始動因)は常に一定の目的へ生成させるものとして一般的に把握されているのである(Ph.B8:199b14-18,25-26) 。そして、個々の事象で連関が成立しない場合は、質料の妨害として個々の事象で処理されるのである(cf. GA Δ4:770b9-17) 。

 質料因の探求も、やはり目的因(機能)の把握が先行する。質料因は、目的因(機能)にとって(或いはそれに適合する形態にとって)、必要な本性的性質をもつ物として探求される。この場合も、目的因と質料因との概念的な関係において探求されている。人工物の例でいえば、鋸の質料は鉄であるとされるけれども、それが探求される過程は、鋸の機能(木の切断)に必要な性質(硬さ等)を本性的にもつものとして特定されているのである(Ph.B9:200a10-13) 。目的因と概念的関係にある質料因とは、目的因に必要な性質を本性的にもつ限りでの物であり、鉄そのものではない。

 さて、こうして概念的に探求された四原因が自然法則に定式化され、今度はそれを通じて個々の自然現象が説明されることになる。既に触れたように(2) 、自然法則が必然的でありとき、個々の現象はそれに包摂される限りで必然的なのである。しかしながら、このとき「四原因の連関」の個々の事例を説明する以上のことが含まれていることに注意したい。つまり、自然学は、定義の構成要素として定式化される事象の四原因だけでなく、事象の属性についても扱うのである( περι των συμβεβηκοτων κατα την τοιαυτην αυτης ουσιαν, PA A1:641a24-25)。しかし、事象の属性も、事象の定義から帰結する限りで必然的である。定義の構成要素ではないけれども定義から帰結する属性は、自体的属性( τα υπαρχοντα καθ'αυτα ) と呼ばれる。(自体的属性の存在を示す)命題の諸項が、論証を通じて、定義に基づく関係をもつことが示されることによって、必然性が確保されるのである(APo.A6:75a29-31) 。こうした自体的属性への着目は、定義を確定する段階においても役立つけれども、自体的属性の存在が必然的とされうるのは、確定した定義を介して論証されるときである(cf.de An.A1:402b16-403a2)[27]

 自然学は、こうして数学を範型とした必然的知識の体系として構想されたものとみることができる。

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