目的論と自然選択説──アリストテレスの生物学への一視点


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[序]
T 目的論と機械論
U 合目的性の構造
V 生命現象に関する物理主義
W 自然選択説
X 生物学における目的論


(掲載誌:『哲学論文集』第三十六輯,2000.)

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 アリストテレスが生物学の創始者であるのは、ただ単に生物やその生命現象に関する著作を残したからではもちろんなく、生物学という学問の研究に関する方法論を示したからである。彼の生物学に関する評価もまた、個々の叙述からではなく、その方法論に即してなされなければならない。生命現象は、生物個体の生存維持や種の存続に役立っている点で、合目的的だといわれる。この生命現象の合目的性は今日に到るまで生物学の研究において欠かすことのできない事柄であろう。合目的性は、確かに偶々生じることもありうる。しかし、生命現象の合目的性は恒常的であり、偶然によるものでない。一定の合目的的な形(形相)が内在しており、生命現象はそれに従っているのである。アリストテレスは、こうした生命現象の合目的性を研究の起点とする。つまり、生命現象に合目的性(形相)を授けている原因(始動因)と、合目的性(形相)の実現に必要となっている素材(質料因)とを探求するのである。ここに目的論的と呼ばれる彼の生物学の基本的枠組みがある[1]

 現代の生物学は、機能生物学と進化生物学とに大別されることがある[2] 。前者は生命現象のプログラムとしてのDNAを前提としてなされる研究であり、後者はプログラムの生成を研究するという点に区別の意図がある。ところで、機能生物学については、アリストテレスの生物学との類縁性が指摘される。生命現象はDNAというプログラム(予め与えられる情報)に従った合目的的な(或いは目標指向的な)過程であり[3]、それが研究の起点となるからである。そして、生命現象のプログラムという点で、DNAとアリストテレスの「形相」が比べられることさえある[4]。しかしながら、機能生物学が進化生物学を前提としている点で、類縁性の意味は失われよう[5]。進化生物学は自然選択によってプログラムの生成を説明するけれども、アリストテレスはそうではないからである。この場合、進化生物学が機械論的説明であるのに対し、アリストテレスの生物学は「目的論的」である点で、対立的に考えられることもある。プログラムの生成を説明する(例えば創造説のような)「目的論的」代案が想定される場合である。この場合に生じる間隙は埋められない。しかし、アリストテレスにとって、プログラム(形相)は既に存在しており、そもそもそれがいかに生成したのかは問われてはいないのである。

 進化生物学とアリストテレスとのこうした相違は、自然把握という一般的な問題からの帰結と考えられる。自然現象は恒常的であり、自然はその原因である。一方で、近世以降の自然は、物理的科学(物理学、化学)における自然法則として指定される自然である。これを物理法則的自然と呼べよう。物体の落下のような現象であれば、(物理法則的)自然によるといえる。しかし、生命現象の示す恒常性は合目性をもち、それにはプログラムが必要であるから、物体の落下と同様に扱うことができない。そこで、生命現象が自然現象であるのであれば、プログラムの生成を物理法則的自然によって説明する理論を必要とした。これが進化生物学において自然選択説の果たすべき役割である。他方、アリストテレスの場合、生命現象の合目的性に関する恒常性は、はじめから自然現象の恒常性の重要な一事例であった(Physica,U8:198b34-199a7) 。生命現象の示す合目的性に関する恒常性は、自然現象がプログラムを内在していることを示しており(cf.ibid, U8:199a7-8)、それが研究の起点であったのである。

 こうした見方が正当であれば、現代生物学をアリストテレス的枠組みにおいて考えることができる。つまり、進化生物学はアリストテレス的な生物学の起点を確保するものであり、それによって機能生物学は生命現象の合目的性を自然現象として研究対象に含めているのである。ここでアリストテレスの生物学と機能生物学との類縁性を改めて問いうる地点にたつことができる。もちろん自然把握の相違はなお残される問題である。しかし、こうした比較は、アリストテレスの目的論的生物学が正当に評価されるために、そして、現代生物学における目的論の意味を考察するために必要なことである。

 本論文では、先ず一般的理解に従い、人間の振舞いに関する「心的過程」を含む目的論に着目し、それに即して、対比されるべき機械論の意味(T)とそうした機械論(物理主義)では説明できない合目的性の構造を考察する(U)。その上で、生命現象の合目的性を機械論(物理主義)では説明できず(V)、自然選択説がそれを確保することを確認し(W)、この確保された起点から、機能生物学は目的論としての生物学を完成させるものであることを論じる。最後にアリストテレスの目的論的生物学への視点を示唆したい(X)。


T 目的論と機械論

 機械論と目的論とは次のような対比で語られることがある。つまり、機械論はいかに(how) あるのかという問いに関わり、目的論はなぜ(why) あるのかという問いに関わると[6]。確かに機械論(mechanism) の範型である力学(mechanics) の場合、運動法則を語ることによって世界がいかにあるかを語っている。しかしながら、機械論(物理的諸科学)はいかなる意味においてもなぜ(原因)に関わらないという訳ではない。先ず、一方で自然法則を定式化する場合、世界をただ記述(描写)することではなく、個々の事象の間での原因結果の連関を探求の出発点にしていたであろう。他方で法則が一度定式化された場合、法則によって描かれた世界の個々の事象について、機械論は原因を語る[7]。というのも、機械論は、個々の事象を、運動法則と(別の個別事象を記述した)初期条件から説明するからである。説明とは原因を与えることであり[8] 、(典型的には)初期条件を個々の事象の原因として与えているのである。つまり、機械論も目的論とともになぜを与える説明理論である。

 さて、こうした機械論が先述のようになぜの問いには関わらないとすれば、それは次のように理解されなければならない。なぜ自然法則(例えば運動法則)がなりたつような世界であるのか(なぜそもそも自然法則はなりたつのか)を語らないということである。そして目的論がなぜこうした世界であるのかを説明すると理解される。世界(自然法則)は知的存在者によって様々な世界(自然法則)の中から或る目的のために設計され製作(制定)されたのである[9]。こうした対比を機械論(T)と目的論(T)の対比とする。機械論(T)は目的論(T)の説明を前提するか、或いは目的論(T)が説明すべき問題を残す訳であり、機械論が目的論を浸食することはない。そして他方、目的論(T)の説明は機械論の描く世界に制約されずむしろその世界を限定している。つまり、こうした対比において対立は生じていないのである。

 ところで、目的論には、自然法則によって描かれる世界の内部において、それに制約されるものがある。これを目的論(U)とする。ものの製作(より限定的には技術)を典型とできよう。これを目的論(U)とする。人間が自分の欲するものの実現を目指して製作する場合、実現されるべき機能(目的)を彼が目指すことが、その製作物の形態(あり方)を説明する(その製作物の形態に原因を与える)という点で、目的論的に説明される。しかしこうした製作では製作物がそこで実現される世界がいかにあるかを(世界を創造する場合のように)任意に選択できる訳ではなく、機械論(T)の描く自然法則を前提しその制限をうけている。製作はすぐ着手できることからでないと始められない。多くの場合は目指す目的までにかなり経過しなければならない過程があるので、先ずその過程を計画(思案)してすぐ着手できることを始める訳である。この計画においては、例えば「XならばY」という自然法則を既に与えられたもの(思案の余地のないもの)として前提して、Yの実現にはXをしなければならないと考え、Xがすぐ着手できることになるまで計画を続けるのである(もちろん同時に「XのときのみY」が成り立ち、Xが一つに特定されることは稀である)。この場合、自然法則を前提することで予め結果を予測しており、それによって製作の計画をたてうるのである[10]

 こうして目的論(U)はなぜこの製作物があるかを説明するとき、機械論(T)はその製作物がいかにあるかを記述することができる。この限りでは対立は生じない。しかし、先述のように、機械論(T)はなぜ(原因)を与える説明理論でもある点で対立をはらんでいる。製作過程を時間系列で記述するとき、製作過程が物理的科学が描く世界内部の事象である以上、機械論(T)は先行条件を原因としてなぜその製作物があるか説明できるからである。さてこの場合、製作物は機械論(T)のみによって説明可能であり、目的論(U)は不要であるとする場合、目的論と機械論は対立する立場となる。これを機械論(U)とする。機械論(U)は物理的科学の対象が製作物の生成する原因となるという強い主張であり、説明理論というよりも還元的物理主義という(存在論的)立場の主張である。


U 合目的性の構造

 目的論(U)と機械論(T)とを比較し、目的論(U)が機械論(T)に還元されるという機械論(U)の主張を退ける。そして、目的論(U)が説明する合目的性を構造として明らかにしたい。このことを機械論(T)の説明に用いられることの多いビリヤードゲームによって考察する[11]。もちろんビリヤードは通常勝つことを目的とするゲームであり、その各々の段階では勝つことを目指してボールの配置を認知した上でボールを打つ訳であり、目的論的説明が必要であろう。ここでは機械論(T)の説明事象に近接して、ボールへの一打というゲームの断片的一局面から考察を始めたい。

 人はボールを打つことで、ボールに或る力を加え、そのボールに或る運動の軌跡をもたらす。目的論(U)は、ボールの或る軌跡を、その軌跡をもたらすためにボールに加えられた力によって説明する。他方、機械論(T:力学)は、ボールの或る軌跡を、ボールに加えられた力によって説明する。それらには表現上の相違がある(傍点部分)。機械論(T)で十分であり目的論は不要であるとする場合、この相違に意味はないと考えている訳である。

 ところで、機械論(T)が説明となるのは、ただ単に二つの事象(力、軌跡)を時間系列に従ってたどったからではない(それではただ描写しているだけである)。説明となるのは、特定の力は必ず特定の軌跡を生じさせると一般的にいえるからである。つまり、力学法則によって、力(x) と軌跡(f(x))との間の対応関係(x→ f(x))の必然性が保証されているのである。こうした機械論(T)と目的論の相違を明らかにするため、先の表現上の相違「特定の軌跡(f(a))をもたらすために」に着目し、それを次のように分節する。一つは、(1)特定の軌跡を目指し、それを生じさせる特定の力を加えたという点であり、もう一つは、(2)他でもなく特定の軌跡であることに意味があり、それが目指されているという点である。

 (1)目的論において特定の軌跡が生じるさせる特定の力を加えたという場合、打者に技能があることが前提される。つまり、打者がボールの軌跡と打つ力との力学的な対応関係 (x→f(x)) を習得しており、個々の対応関係 (a→f(a), b →f(b), c→f(c) ...) から特定の軌跡(f(a))を生じさせる力(a) を(対応が一対一であれば定め、そうでなければ)選び取って打つ力を調整できることである。ここで対応関係を習得するというのは、力学法則を知っておりそれから必要な力を計算するということではなく(それはできてもできなくてもよい)、例えば、練習の中で打つ力を調節しつつボールの軌跡との対応関係を体得していることである[12]。目的論において、こうした技能によって加えられる特定の力が特定の軌跡を説明する。

 もし対応関係を習得していないか、習得していても加える力を調整することができない場合、つまり技能がない場合、目的論的説明はなされない。例えば特定の軌跡(f(a)) を想定した上ででたらめに打ったらその軌跡を描いたということはありえる。しかし、目的論的説明はなされず、特定の軌跡が偶然生じたというであろう。ところが、機械論(T)では、技能のあるなしにかかわらず説明可能である。対応関係(x→f(x)) が一対一の対応とすれば特定の軌跡(f(a)) を生じさせる力(a) によって、そうでなければ実際に加えられた力によって、特定の軌跡(f(a)) が必然的に生じたと説明されるからである。

 (2)ところで、特定の軌跡(f(a))を目指していたが別の軌跡(f(b))を生じさせてしまった場合、その別の軌跡(f(b))が目的論的に説明されることはない。特定の軌跡(f(a))を生じさせようとしたけれども、失敗したというだけである。別の軌跡(f(b))が説明されるのは機械論(T)によることであり、別の力(b) によって別の軌跡(f(b))が生じたと説明される。機械論は特定の軌跡に意味を求めず、任意の軌跡を力と軌跡との対応関係(x→f(x)) の一事例として説明する。それに対し、目的論は特定の軌跡であることに意味がある
のである。

 ゲームに勝つことがゲームで最終的に目指されること(最終目的)であるとすれば[13]、ゲームの断片的局面で特定の軌跡が目指されるのは、その特定の軌跡がゲームに勝つことに寄与するからである。目的論的説明はこうした最終目的を前提する。そして同じことがゲームの他の断片的局面におけるボールの軌跡についてもいえる。つまり、ゲームが終了するまでの諸段階において、ボールの軌跡はすべてゲームに勝つことに寄与するものとして目指されている。ところで、ゲームが終了するまでの各々のボールの軌跡は一連の過程であり、各々の軌跡は統制されていなければ勝利に到れない。そのために戦略が必要である。戦略は勝利に必ず到るように一連の過程におけるボールの軌跡を特定するのである(戦略は各段階でボールの現状配置によって修正されうる)。こうした戦略がある場合、目的論は、特定の軌跡をゲームの勝利(最終目的)への寄与によって(第三者からは一見寄与するように見えなくとも)説明できる。それはその軌跡が戦略上必要だからである。

 勝つまでの戦略をもたない場合、たとえ結果的に勝ったとしても、ゲームの一局面での特定の軌跡が勝利への寄与によって目的論的に説明されることはない。例えばすぐ次に打つべき軌跡のみ考えてボールを打ち続けることで(そうしたこと自体が戦略である場合は除く)、ゲームに勝った場合である。こうした場合、偶然勝ったのであり、特定の軌跡が勝利への必要性という点で意味をもつことはない。それゆえ目的論的に説明されないのである。

 ところで、機械論(T)では、技能の場合と同様、戦略のあるなしにかかわらず、必然的に勝つことになる。勝利という力学的状態に到るまでに実際に辿った力学的な過程があり、それが勝利の状態に到るのは力学的に必然的だからである。そして機械論は先行する過程から勝利の状態を説明する。しかし、目的論のように、ゲームの一局面での特定の軌跡(先行事象)を勝利という状態(後続事象)によって説明することは(原則的に)ない。仮に説明するとすれば、説明可能であるのは勝利に到る過程が一つしかない場合であり、勝利に到るまでの過程が複数ある場合には特定の軌跡(原因)が勝利の状態(結果)に必要である訳ではないからその軌跡を説明できないであろう(この点はX節の考察に関係する)。

 (1)(2)の考察を通じて、一方で目的論は(1)技能を前提して特定の力によって特定の軌跡を説明し、(2)ゲーム終了までの一連の軌跡を定める戦略を前提して、ゲームの勝利によって特定の軌跡を説明すること、他方で機械論(T)は(1)特定の力によって特定の軌跡を説明するが、(2)特定の軌跡が意味をもたず、それを勝利によって説明することも(原則的に)ないことを確認した。こうした相違が「特定の軌跡をもたらすために」という表現上の相違で表されているのである。

 では、機械論(U:物理主義)は成立するのか。つまり、目的論の説明することは物理的対象(典型的には物質)によって説明されるのであろうか。目的論において、(1)技能は打つ前に特定の軌跡によって特定の力を定めることを含み、(2)戦略は勝利に導く一連の軌跡を定めることである。他方、機械論(U)においては、(1)物体に特定の力が加えられるのも、(2)物体が特定の一連の軌跡をとることも確率的に偶然である。これは目的論が説明する合目的性を機械論(U)は説明できないことを示している。なぜなら合目的性の説明には、特定の状態に到る経路が必然であると説明すること(機械論(T))だけではなく、機械論(T)によって説明される経路を(確率的に偶然ではなく)定めることも必要だからである。つまり「プログラム」があることが保証されなければならない。目的論における技能や戦略はこうした「プログラム」を用意しているのである。

 目的論が説明する合目的性を(1)(2)に応じて「合目的性の構造1、2」と呼び、それを次のような仕方で定式化して次節以降に備えたい(1は断片的局面だけでなくゲーム全体にも妥当しよう)。

1.特定の結果(目的)をもたらすものとして先行原因が特定されている[14]
2.最終目的にいたるすべての過程はその最終目的に寄与している(Physica,U8:199a8-9)。


V 生命現象に関する物理主義

 生物の様々な器官はそれぞれ(生存環境で)特定の機能を果たすのに適応した特殊な形態をしている。そして様々な器官は全体としてその生物の生存に寄与するように体系化されている。こうした生物の特徴は前節末尾に挙げた合目的構造(1、2)のそれぞれの定式に符合している。

 1.生物の器官の形態(先行原因)はその機能(結果)に適応している。
 2.諸器官のもつそれぞれの機能(結果)は生物の生存(最終目的)に寄与する。

それは人間が製作する機械と類比的である。

 1.機械部品の形態(先行原因)はその機能(結果)に適応している。
 2.諸部品のもつそれぞれの機能(結果)は機械の用途(最終目的)に寄与する。

 ところで、機械の場合、用途から機械全体を体系的に設計し、体系内での諸機能に適応させて各部品を設計することによって、こうした構造が成立している。しかし、設計といった心的過程が除かれた場合、機械論(U)による説明はできないことは前節の考察から明らかであろう[15]。ここでは生物に関して、DNAの複製という物理化学的説明によって合目性を説明できないことを確認しておきたい。DNA還元主義(機械論(U))と呼ばれる立場の否定である[16]

 生物の形態はプログラムとして物理化学的な原因をもつ。つまりその生物のDNAである。しかし、現存する或る生物の存在(結果)を前提してそのDNA全塩基配列(genome)(原因)を特定することはできるが、現存生物を前提せずに予め塩基配列が特定されることはない。現存生物から祖先を遡っていけば、それ以上遡れば現存生物と同じ形態をもたないような生物個体を見つけられよう。その個体はその前世代とは異なる形態を発現する塩基配列(A)をもつ訳であり、変異第一世代である。しかし、変異はその配列(A)のみを生じさせるのではない。変異はランダムに起こり[17]、様々な配列(A、B、C、…)が生じていたと考えなければならない(形態を発現しないものも含む)。そのうちの一つの配列(A)が現存生物に到るまで複製されてきたのである。ここには二重の偶然が含まれている[18]。配列Aであれ、配列Bであれ、それが生じる確率的偶然(1)と、そのうちから特定の配列Aのみが現在まで複製され続けることになった(配列Aが選出された)という偶然(2)である。前者、確率的偶然(1)について或る仕方で物理的説明が可能であろうし、変異個体の次世代以降については複製の仕組みによって偶然ではなくなる。

 しかし、後者の偶然(2)は、変異の場合の確率的偶然とは区別されるべき偶然であり、物理的説明によっては解消されない。変異によって生じた様々な塩基配列のうち、配列Aであれ配列Bであれ何か特定の形質を発現する塩基配列のみが「確率的な意味で偶然に」残りそれが複製され続けたとしても、それが現存種のもつ配列に他ならないとはいえないからである。なぜなら、現存生物は次のような特定の形質を発現する塩基配列をもつからである。つまりほとんどの場合、現存生物は(生体の内部外部を含めた広い意味で)生存環境での機能(結果)に適応した諸形態(原因)をもち(合目性の構造1)、一つの形態の機能は他の諸形態の機能と統合されその生物の生存(最終目的)に寄与している(合目性の構造2)のである。こうした特定の配列が存続しているのである。このこと自体、確率的な意味で偶然であるとするならば、ほとんどの場合(恒常的に)生物が合目的性をもつことが説明されない。それが偶然でないことを示さなければならないのである。

 生物の合目的性が単にDNAの複製によって説明されるというDNA還元主義(機械論(U))は誤りであり、合目的性が偶然によるものでないという説明は自然選択説に求められるのである(自然選択説は機械論(T)であるが(U:物理主義)ではない)。


W 自然選択説

 自然選択とは、ダーウィンに従えば「有利な変異が保存され、有害な変異が棄てさられていく(一一二)」ことを指し、次のA、B二つの前提から主張される[19]。そのうちAはA1、A2二つの前提から主張される(一七〇)。そしてこうしたダーウィンの定式化は今日でも基本的に保持されている[20]

A.生存に有利な変異がある
A1.多様な変異がある
A2.生存競争がある
B.遺伝がある[21]

 自然選択説は生物の適応と多様性を説明する理論であるが(八六)[22]、以下では考察を適応問題にしぼる。その問題は「(a) 体制の一部が他の部分や生活条件に対して示す、また(b) ある生物が他の生物に対して示す、絶妙な適応は、いかにして完成されたのであろうか。(八六)」という問いによって示される。特に(a) の問いを念頭におき、同じ環境(「〔体制の〕他の部分や生活条件」)にある同じ種において[23]、「体制の一部」の形態に限定して考えたい[24]

 さて、A1の「多様な変異」は前節でいえば「多様な塩基配列が発現する様々な形態」に対応する。A2の「生存競争」という語は「広義に、また比喩的な意味」で用いられており、生物個体の生存維持や繁殖の成功を含んでいる(八八)。そこで、Aの「有利な」とは「生存に寄与する」ことと理解される[25]。つまり、自然選択説の前提(A、B)と結論(C)、そしてそれが説明する適応(D)を改めて次のように定式化できる。

 A.様々な変異形態のうち生存に寄与する形態がある
 B.遺伝がある
 C.生存に寄与する形態が保持され、有害な形態は廃棄される
 D.現存生物は生存環境に適応した形態をもつ

 では、自然選択(C)がどのように適応(D)を説明するのかを確認しておきたい。前節で述べたように、変異第一世代が生存に寄与する形態をもつことは偶然である。つまり、前提A「様々な変異形態のうち生存に寄与する形態がある」ことは偶然である。もう一つの前提B「遺伝がある」ことが追加されることが重要である[26]。それが偶然的事象を定着させるのである。

 変異第一世代の形態は繁殖年齢までの生存維持に何らか寄与することで、その形態(を発現する塩基配列)を次世代に残すことになる。そして第一世代から形態を受け継いだ子孫は常に生存への寄与を試され、他の様々な形態をもつ生物との競争にさらされている。こうした過程が当の形態(を発現する塩基配列)に固定化されるまで、つまり他の様々な形態をもつ生物が絶滅するまで続く(こうした過程は直接観察されない。寄与の仕方の特定については次節)。この過程が自然選択(C)である。このとき、その形態(を発現する塩基配列)は、その形態が生存に何らか寄与するという結果によって特定され保持されている(合目的性の構造1の生成)。また、形態の生存への寄与は生体全体の生存維持や繁殖の成功によって試されている。つまり生体の一部の形態は単独ではなく他の部分とのバランスの中で生体全体という視点から定められるのである(cf.一八九)(合目的性の構造2の生成)。

 ところで、生存環境に適応した特殊な形態は塩基配列の変異によって一挙に生じた訳ではない。もしそうであれば、逆に新たな変異によって生存環境に適応した形態は容易に損なわれることになろう。自然選択においては、生存に寄与する形態を保持しつつ、新たに生存に寄与する変異が保存され集積されているのである(一一六等)。形態の適応は、こうした変異の保存と集積によって説明されている[27]。「選択の過程は緩慢であるけれども、……変化の量にたいしても、また自然の選択力によりながい時の経過のあいだになされた全生物の相互間および生活の物理的条件にたいする、適応の美しさと極度の複雑さ(the beauty and infinite complexity of the coadaptations) とにたいしても、限界を付すわけにはいかない。(一四七、 cf. 下二三七)」


X 生物学における目的論

 現代の進化生物学では、「適応」について、自然選択による「適応している」という状態の問題であり、日常的(或いは他の生物学分野における)意味での「適応する」という過程の問題ではないと註釈が加えられる[28]。適応は結果であり目指された訳ではない。このことは生物学において目的論は成立しないことを意味するのであろうか。生物学における目的論の可能性を探りたい。

 先ず道具の製作で考えたい。道具が設計や製作の技術によって製作される場合、道具の形態が用途に適応していることは目的論的に説明される。用途に適応しているのは、(A)設計において入手可能な材料の形成や組み合わせといった様々な物理的可能性の中から(製作しやすさも考慮しつつ)仕事の効率や使いやすさ等の点で用途に相応しい特殊な形態を定めており、(B)その設計図に基づいて製作技術によって製作しているからである(設計と製作技術はそれぞれU節の戦略と技能にほぼ対応する)。

 他方、偶々できた形態が道具として用途に適応しているとしても、目的論的説明はできない。自然選択説に相当するのは、これに次のようなことを付加した場合である。材料をでたらめに加工し続け偶々できた形態を特定用途への寄与(仕事の効率、使いやすさ等)の点で検証しつつ、同様な仕方で偶々できた他の様々な形態の中にその用途への寄与の度合いがより高い形態はないかを試行する場合である。そうした過程を十分な期間継続すれば、寄与の度合いのより高い形態が残され、結果的に残された形態は特定用途に相応しく適応していることになるであろう(自然選択説の論点「有益な変異の蓄積」は「材料を加工し続ける」点に正確ではないが含める)。しかし、こうした自然選択的な想定をしてもやはり目的論的説明はできない。目的論が成立するためには、(B)自然選択的な過程を経てできた形態を(理想的には形態を設計図に起こしそれに基づいて)再製作できるということが必要である(製作技術)。また、(A)設計において設計図が書かれた経緯、つまり用途に寄与するのはしかじかの性質でありそれはしかじかの形態によって実現されるといった連関を理解することが必要である(設計技術)。こうした理解は形態からその物理的作用の系列を用途に到るまで逆に辿ることでえられよう。つまり、特定の形態を前提しその作用を説明する機械論(T)がそうした理解を与える訳である。

 こうした考察は生物学における目的論の可能性を示唆する。機械論(U)では生物の形態が生存に寄与する仕方で生存環境に適応していることは偶然でありそれを説明することはできない(V節)。それゆえ、生存に寄与するためにしかじかの形態をしているということはできない。他方、自然選択説は現存生物の(固定化された)形態が生存へ最も寄与という点で存続し結果的に適応していることを示す。この場合、生存に寄与するためにしかじかの形態をしているといえる。ただしそれは「適応している」ということの言い換えにすぎず、それ自体が目的論的説明ではない。しかしそれは目的論的説明の起点であり、先の(A)(B)のような仕方で補完されることによって目的論として完結する。(B)はDNAから形態の発現に到る過程を研究する発生学に代表され、(A)は生体全体の中で部分の形態の機能を研究する生理学に代表されよう。特に生理学は機械論(T)として考えられてきたものであるが、それが目的論を完結させるものとなるのである[29]。こうして現代生物学において、自然選択説を起点として生物学が全体として目的論的説明を形成していると見ることができよう。

 ところで(A)については、設計してつくられた機械を後で解析して設計の過程を辿るような、逆設計工学(reverse engineering[30]) 的探求が有効である。つまり、形態はどれも存在理由をもち、無駄はないと仮定するのである[31]。もとよりこうした仮定は、すべての形態が自然選択によるものであるときのみ意味をもつものである。自然選択は、前節で述べたように、有益な形態を保持し有害な形態を除去するだけであるから、有益でも有害でもない形態は自然選択によらないことになる。しかし、有益でも有害でない形態であることは決して自明ではなく、探求の方法論的仮定として有効であろう。

 さて、現代生物学を目的論として見た場合、本論文冒頭に述べた自然把握の相違にもかかわらず、アリストテレスの目的論的生物学に対し一つの視点が与えられ、少なくともアリストテレスへの誤解が軽減されよう。一点は当時の物理主義的概念である四元(熱冷乾湿)を説明に用いていても、目的論を完成する探求でありえること。もう一点は「自然は無駄をしない」といった言明は自然を擬人化した目的論を示すのではなく、「逆設計工学」に比される方法論的言明でありえることである[32]。こうした問題をアリストテレスに即して明らかにすることはもちろん別の課題である。

 

 

 


 

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