書評
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Michael Ferejohn, The Origins of Aristotelian Science, ix+174p., New Haven, Yale University Press, 1991.

Richard D. McKirahan, JR., Principles and Proofs: Aristotelian Theory of Demonstrative Science, xiv+340p., Princeton, Princeton University Press, 1992.
 

日本西洋古典学会『西洋古典学研究』XLII, 1995 に掲載。

掲載誌で用いた略号は使用しない。適宜、改行し文字の強調をつける。
 


  これら2冊は, アリストテレスの『分析論後書』を主題的に扱う研究書として, 英語圏では, 註釈書 (Ross:1949, Barnes:1975) や論文集 (8th Symposium Aristotelicum:1981) を除けば, 初めてのものになる. 『分析論後書』のもつ個々の問題については, 確かに相当の研究がなされてきているし, 他の著作(近年では特に動物論)との関連で参照されることも多い. それに対し, Ferejohn, McKirahan 両著者とも, そうした個々の問題を『分析論後書』全体から理解することを目指すのである.

  Ferejohnの表題の意味は, 一方では, アリストテレスの知識概念がプラトンの影響のもとでいかに成立したか, またアリストテレス自身が後年発展させる思索の出発点はいかなるものであったかという歴史的起源の意味と, 他方では, 論証知の始源・原理という意味を合わせもっている. 第1部では, 既に論文 (1982) でも公表されているFerejohnの「論証二段階説」が提示され, 独自の原理論が展開される. Ferejohnは, 論証を三段論法に拠らない形成段階と三段論法段階の二つに区別し, 形成段階において働くものとして原理 (arche) を, 三段論法段階の前提命題 (protasis: P) と区別する. この形成段階とは, 分割法による過程(『分析論後書』B13) を指す. 分割において, 原理のうち, 類の存在の仮定, 矛盾律等の公理は, 背景的に働き, 実質的には定義 (horismos: H) が働くとする. 定義(H)は, 知覚等を経た直観 (nous) において獲得されたものであるが(『分析論後書』B19), この定義(H)が, 分割の過程で或る領域での対象について展開されることで, 初めて無中項の連関をなす前提命題(P)が形成されると Ferejohn は解する. そして, 定義(H)が意味の連関であり存在含意を持たない (Platonic) のに対し, 前提命題(P)は存在含意をもつ (referential universal) 点を強調するのである.

  こうした第1部が前提の外延的な条件の考察であったのに対し, 第2部では, 前提の内包的条件としての必然性や原因の解明を目指して「自体的」述定の4種 (『分析論後書』A4) が検討される (但し『カテゴリー論』での述定論の改良であるという議論に相当の分量をとっている). 必然性は定義的連関を示す「自体的1(述語項が主語項の定義に含まれる場合)・自体的2(1と逆の場合)」に求められ, 原因は因果連関を示す「自体的4」(主語項の故に述語項が属す場合)に求められる. Ferejohnの解釈の特色は, 「自体的2」の属性として種差を, 「自体的4」の問題として「多くの場合(epi to polu) 」の問題とともに, 特性(三角形の内角の和も含む)を扱う点に見られる. Ferejohnは第2部で更に否定命題の問題を扱い, 類の制約という視点から否定命題の意味の確定についてのアリストテレスの解法を論じている.

  以上Ferejohnの著作は, 『分析論後書』研究として, 「存在含意をもつ普遍」が取り出された箇所(『分析論後書』A1) のもつ意味や射程, また「自体的2」が更に含みもつ意味(p.155, n. 13)等, 検討されるべき興味深い論点が含まれている. しかし, 『分析論後書』の「包括的解釈(p.1) 」としては不十分であり, また, 『分析論後書』に即した考察というよりも, より広い視野の下で『分析論後書』を用いて普遍や述定を主題として考察したものと考えた方がよいであろう(特に第2部).

  それに対し, McKirahanの方は, 『分析論後書』の基本的問題をほぼ網羅する仕方でテキストを再構成し, 個々の箇所について(『分析論後書』や他の著作からの参照箇所も含め)本文中で引用しそれに相当の註釈を施しつつ問題を探りだしている(細かなテキスト解釈において創見を含んでおり, 出典索引〔Ferejohnにはない〕によって註釈書としても利用できよう). 再構成といっても, 全体の大きな区分は, 表題に示唆されるように, 論証原理(chs. 3-12), 論証(chs. 12-17), 原理把握(ch. 18) という妥当なものであり, また個々の問題について引照される『分析論後書』等の箇所も概ね堅実である.

  McKirahanは, クーンのパラダイム論を援用する(本書中では異質な)議論に続き(ch.1), 先ず, 原理の六つの要件(『分析論後書』A2:71b20-22) の解釈を中心として, 論証の基本把握を描く(ch. 2). その中で, 論証における原理の結論に対する先行関係が, (a) 命題やそれが表現する事実の本性的〔自然的〕順序であるとともに  (b) 可知性(intelligible, gnorimon) の本性的順序である点を指摘する(p.33).  (a) の観点が本書の大部分を占めることになるが(chs.3-17), その概要は次の通りである. 原理について順次考察された上で(chs.3-10), ユークリッド『原論』の原理と比較される( 『原論』はまたアリストテレスの論証モデルとして援用される. chs.11-12). そして, 論証の基本形(特に『分析論後書』A5の「普遍」論. ch.13)と適用形(種, 個別, 自然現象への適用. ch.14), 更には存在の論証(ch.15) , 本質の論証(『分析論後書』B8-10 の定義論. ch.16)が考察される.

   他方, (b) の観点(近年その重要性が強調される)は, 説明理論としての論証(ch.17) と原理把握(『分析論後書』B19. ch.18) の問題の中で扱われている. McKirahanは, 論証の前提が結論に対して「原因(McKirahan は"ground"を用いる)」であるとは, 結論が成立する原因(ratio essendi ) であるとともに, 前提を知ることで結論を知る意味での原因(ratio cognoscendi ) であることを指摘する. 論証の示すのは, 専門家 (expert) の知のあり方であり, 彼らにとっての可知性は本性的な可知性と一致するのである. そして, 原理把握の問題で, 「ヌース」は, 論証の原理を原理として把握している専門家の知の状態として描かれるのである(それはまた, 論証以前の普遍概念や命題の把握 (noein, noesis )とも区別される).

   しかし, McKirahanの再構成は他方で「アリストテレスの論証理論よりも, より正確にアリストテレス的と呼ばれる論証理論 (p.5) 」の提示という大胆な側面をもち, そのため, 『分析論後書』からの意図的な逸脱を含んでいる. 『分析論後書』からの逸脱を含む主要論点は次の二点である. McKirahan は(Ferejohnと異なり)原理がいずれも論証の前提であるという解釈を採り, そのうち「類の存在主張(基礎措定: hypothesis)」の問題を, 次のように展開する. 基礎措定は論証での役割として『原論』の作図要請と対応するとし(ch.12) , 基礎措定(線等の原始主語項の存在主張)を前提として(三角形等の派生主語項の)存在の論証が成立することを『原論』を援用して実際に示すのである(ch.15). もちろん, 存在(1項命題)の論証は, 三段論法ではなされえない. McKirahan は論証の論理として, (数学を扱う場合の難点もある)三段論法に制約されない論理を採用するという『分析論後書』またアリストテレスからの意図的な逸脱を行うのである(ch.12. esp.p.156).

   もう一つの『分析論後書』からの意図的逸脱は, 定義の問題にある. McKirahanは, 『分析論後書』の類と種差による定義を前提としても主語項の自体的属性の全てを論証することはできないとし, 「被定義項に対して無中項に自体的に連関するものの連言(fat-definition)」を定義として導入するのである(『動物部分論』A3を援用. ch.9). この場合に McKirahan は(評者はこの点に McKirahan の定義概念の曖昧さを見るが), 無中項な項連関のもとでは相互に一方の項が他方の項の "fat-definition" に含まれるとし (p.169,p.267), それにより主語項(小項)から述語項(大項)への無中項な項連関のもとで自体的連関の種類を揃え, 論証の結論が基本的に「自体的1」(Ferejohn と同じ番号づけ)であるという特異な解釈を導いている(p.169) .

    こうした McKirahan の試みにはもちろん様々な問題が含まれており単純に否定することはできない. ただ, 初めの点については, 定義による知と論証による知を区別する解釈が可能であろうこと, 二つ目の点については, 述語項の定義のあり方(『分析論後書』B8-10 の定義論の問題であるが, それへのMcKirahanの解釈は性急さを含む)をより検討する余地のあることを指摘しておきたい.
 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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